ゴールデンステイト・ウォリアーズのステフィン・カリーが史上最高のシューターであることに、異論を唱える者は少ないだろう。彼の弟セス(ダラス・マーベリックス)もまた優れたシューターで、通算3ポイント成功率ランキングでは、ステフが史上5位、セスは兄を上回る3位に名を連ねている。
そのリストをずっと辿っていくと、37位にも“カリー”が現われる。デル・カリー、ステフとセス兄弟の父親の名前だ。息子たちと同様に、デルもまた高いシュート力を武器に、草創期のシャーロット・ホーネッツを支えた好選手だった。
デルの本名はウォーデル・ステフィン・カリー。実はステフもまったく同じ名前の二世で、父と区別するためにミドルネームを通称としている。
子どもの頃からスポーツ万能だったデルは、バージニア州のフォート・ディファイアンス高時代にはバスケットボールと野球で州大会優勝。さらにフットボール選手としての才能もあったが、「冬に外で試合をするのは嫌だ」とあまり乗り気ではなかった。
1982年にはマクドナルド・オールアメリカンに選出される一方、MLBのテキサス・レンジャーズから投手としてドラフト37巡目で指名された。この年、デルよりも下位の42巡目で同球団に指名されたケニー・ロジャースは、通算219勝の名投手になっている。
しかしデルは、レンジャーズへの入団を拒否してバージニア工科大へ進学。3年後の85年にもボルティモア・オリオールズが再度14巡目で指名するなど、野球界はカリーの才能を大いに買っていた。
それでもデルが本当にプレーしたいスポーツは、最初からずっとバスケットボールだった。速射砲のような素早いモーションから繰り出されるシュートは正確無比。84、85年にはジョーンズ・カップのメンバーとして台湾遠征に参加し、84年の大会で優勝している。
86年には平均24.1点をあげ、メトロ・カンファレンスの最優秀選手に選出された。当時の同カンファレンスは、86年にルイビル大が全国制覇、85年にもメンフィス州大がNCAAトーナメントのファイナル4に進出したほどレベルが高く、バージニア工科大もトーナメントに2回出場したが、いずれも1回戦で敗退。それでも、随所に好プレーを見せたデルの実力はスカウトからも高く評価された。
そのリストをずっと辿っていくと、37位にも“カリー”が現われる。デル・カリー、ステフとセス兄弟の父親の名前だ。息子たちと同様に、デルもまた高いシュート力を武器に、草創期のシャーロット・ホーネッツを支えた好選手だった。
デルの本名はウォーデル・ステフィン・カリー。実はステフもまったく同じ名前の二世で、父と区別するためにミドルネームを通称としている。
子どもの頃からスポーツ万能だったデルは、バージニア州のフォート・ディファイアンス高時代にはバスケットボールと野球で州大会優勝。さらにフットボール選手としての才能もあったが、「冬に外で試合をするのは嫌だ」とあまり乗り気ではなかった。
1982年にはマクドナルド・オールアメリカンに選出される一方、MLBのテキサス・レンジャーズから投手としてドラフト37巡目で指名された。この年、デルよりも下位の42巡目で同球団に指名されたケニー・ロジャースは、通算219勝の名投手になっている。
しかしデルは、レンジャーズへの入団を拒否してバージニア工科大へ進学。3年後の85年にもボルティモア・オリオールズが再度14巡目で指名するなど、野球界はカリーの才能を大いに買っていた。
それでもデルが本当にプレーしたいスポーツは、最初からずっとバスケットボールだった。速射砲のような素早いモーションから繰り出されるシュートは正確無比。84、85年にはジョーンズ・カップのメンバーとして台湾遠征に参加し、84年の大会で優勝している。
86年には平均24.1点をあげ、メトロ・カンファレンスの最優秀選手に選出された。当時の同カンファレンスは、86年にルイビル大が全国制覇、85年にもメンフィス州大がNCAAトーナメントのファイナル4に進出したほどレベルが高く、バージニア工科大もトーナメントに2回出場したが、いずれも1回戦で敗退。それでも、随所に好プレーを見せたデルの実力はスカウトからも高く評価された。