専門5誌オリジナル情報満載のスポーツ総合サイト

  • サッカーダイジェスト
  • WORLD SOCCER DIGEST
  • スマッシュ
  • DUNK SHOT
  • Slugger
NBA

ホーネッツの主力として、そしてステフィンの父として、デル・カリーがNBAに残した確かな爪痕【NBA名脇役列伝・後編】

出野哲也

2020.02.21

キャリア序盤はチームをたらい回しにされたデルだが、ホーネッツで自身の居場所を見つけた。(C)Getty Images

キャリア序盤はチームをたらい回しにされたデルだが、ホーネッツで自身の居場所を見つけた。(C)Getty Images

「いつになったら自分に合うチームが見つかるのか不安だった」と語るデル・カリーにとって、シャーロット・ホーネッツこそ捜し求めていたチームだった。1988年、迎えたキャリア3年目のシーズンはトレーニングキャンプで手首を負傷するアクシデントに見舞われ、最初の19試合を欠場したものの、復帰後は持ち前のシュート力を存分に発揮する。

「ヴィニー・ジョンソン(元デトロイト・ピストンズほか)のように短時間で多くの点を叩き出す」と他球団の幹部を唸らせ、ステップバックして放たれる3ポイントの正確さはボストン・セルティックスのラリー・バードと比較された。翌89-90シーズンは控え起用ながら、平均得点を16.0点にまで伸ばし、守備でも12月30日のヒューストン・ロケッツ戦で当時の球団記録となる7スティールを決めている。
 
 91年は新人のケンドール・ギルに出場時間を奪われたが、92年からは3年連続で平均15点以上、3ポイント成功率4割以上と、安定した活躍を披露。93-94シーズンにはリーグ4位となる152本の長距離砲を成功させ、シックスマン賞に輝いた。

 チームも91年にラリー・ジョンソン、92年はアロンゾ・モーニングと2年連続で大物ルーキーが加入。当時黄金期を築いていたブルズと比較され“フューチャー・ブルズ”と呼ばれるほど急速に力をつけていった。

 しかし、ファンの期待とは裏腹に、エゴの強い若手スター2人は共存することができなかった。95-96シーズンの開幕前にモーニングはマイアミ・ヒートへトレードされ、前年の地区2位から同年は6位にまで転落する。

 それでも96-97シーズンは、トロント・ラプターズとの開幕戦でデルがキャリアハイとなる38得点を叩き出して勝利を収めると、以降もチームは好調を維持し、球団記録の54勝をマーク。グレン・ライスやブラデ・ディバッツといった新加入選手が実力を発揮した結果だったが、在籍9年目でチームのすべてを知り尽くすデルが、彼らを上手に溶け込ませたからでもあった。
 
NEXT
PAGE

RECOMMENDオススメ情報

MAGAZINE雑誌最新号