NBA

「まるで映画のような選手生活だった」実直な男フィッシャーが歩んだ激動のキャリア【NBA名脇役列伝・後編】

出野哲也

2020.02.27

レイカーズでコビーとともにリーダーシップを発揮したフィッシャーは、キャリアで5度のリーグ制覇を成し遂げた。(C)Getty Images

■難病の長女との感動秘話と古巣レイカーズでの第二章

 2004年夏にFAとなったデレック・フィッシャーのもとには、その堅実なプレーと勝負強さを評価する複数のチームからのオファーが殺到。6年3700万ドルの厚遇を提示したゴールデンステイト・ウォリアーズへの移籍を決めた。

 ただ、05-06シーズンにキャリアハイの平均13.3点をマークしながら、そのオフにはトレードでユタ・ジャズへ。するとコート外でも激動に見舞われる。

 まず、06年11月にNBAの選手会長に就任。そして年が明けた07年のプレーオフ期間中には、生後11か月の長女テイタムが網膜芽細胞腫(目にできる腫瘍の一種)を患っていることが判明し、これを公表する。

 愛娘の手術に付き添ったニューヨークから、本拠地ソルトレイクシティに舞い戻ったウォリアーズとのカンファレンス準決勝第2戦。第3クォーター終盤に会場に到着したフィッシャーは、すぐさまユニフォームに着替え、地元ファンの大歓声に迎えられてコートに立つと、オーバータイムに勝利を決める3ポイントを沈めてみせた。この感動的なストーリーによって、彼は同年のESPNアウォードを受賞している。
 
 オフには娘が適切な治療を受けられる大都市でのプレーを希望。契約解除の申し出をジャズ側も了承する。移籍先がロサンゼルス・レイカーズだったため、娘の病気をダシにして古巣に戻りたかっただけでは?との憶測も流れたが、ジャズとの残り3年2200万ドルの契約を放棄して、800万ドルも安い条件で復帰したのだから、動機にやましいところはなかったのだろう。

 レイカーズでの"第2章"はチームリーダーとして、そしてクラッチシューターとして奮闘。09年、オーランド・マジックとのファイナル第4戦では残り4.6秒で同点の3ポイントを沈めただけでなく、オーバータイムでも残り30秒で値千金のシュートを叩き込む。本人も「13年間のキャリアで最高のショット」と語った会心の一撃で、『ロサンゼルス・タイムズ』紙のビル・プラシュキー記者は「あのシュートで彼はレイカーズにおける自らの地位を不動のものとした」と記している。

 チームは第5戦にも勝ち、これでフィッシャーが手にしたチャンピオンリングは4つ目に。さらに翌年もファイナルでボストン・セルティックスを破り、そのコレクションを5つに増やしている。
 
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指導者として第2のキャリアを歩むも結果を残せず