シカゴ・ブルズが最後に優勝した1997-98シーズンの密着ドキュメンタリーシリーズ『ザ・ラストダンス』(全10話)の放映が始まり、“神様”マイケル・ジョーダンが今、改めて脚光を浴びている。20世紀最高のスーパースターと謳われた「背番号23」のキャリアを、前後編で振り返る。
■絶頂期での突然の現役引退、世間の度肝を抜いた野球挑戦
1990-91シーズンにレイカーズを下して初優勝を飾ると、92年は因縁のブレイザーズ、そして93年は悪友バークレーを擁するフェニックス・サンズを倒して3連覇を達成。もちろんファイナルMVPは3年ともジョーダンが受賞した。
だが、こうした成功(7年連続得点王やNBA3連覇)はジョーダンにとって克服すべき対象がなくなりつつあることを意味していた。新たな刺激を求めてギャンブルに耽溺し、その事実がマスコミに暴かれて非難を浴びたこともあり、プライバシーのない生活にも疲弊していた。
そして1993年8月、父親が強盗に射殺される悲劇的な事件が起きたことが引き金となり、ジョーダンは現役引退を発表した。
「自分がバスケットボールで証明しなければならないことはもう何もない。これからはもっと家族や妻や子どもたちと過ごし、普通の生活を送りたい」
とはいえ、“普通の生活”に彼が満足できるわけがなかった。新たなチャレンジの対象として見出したのが、子どもの頃はバスケットボールよりも好きだった野球だった。亡き父が最も愛したスポーツで成功を収めることで、父を失った悲しみを乗り越えようとしたのだ。
ブルズのオーナー、ジェリー・ラインスドーフが所有するシカゴ・ホワイトソックスに入団したジョーダンは、傘下のマイナーリーグ、ダブルAのバーミングハム・バロンズから野球選手としてのスタートを切った。
年収が3000分の1の選手たちとともに、泥だらけになって白球を追った。一切の特別扱いを拒み、10時間以上ものバス移動にも何一つ文句言わなかった。その真摯な姿勢に、はじめは懐疑的な目を向けていたチームメイトたちも感銘を受けた。もっとも、試合前に監督(現クリーブランド・インディアンス監督のテリー・フランコーナ)とトランプやゴルフに興じていたあたり、やはり普通のマイナーリーガーではなかったのだが。
「父に対する約束を果たしたい。失敗は恐れていない。挑戦しないことのほうがずっと嫌なんだ」
強い思いで野球に打ち込んだジョーダンだったが、現実は厳しかった。15年も本格的にプレーしていなかったスポーツを、すぐにこなせるわけはなかった。変化球を投げられる度にバットは空を切り、打率は辛うじて2割を上回る程度。127試合でホームランは3本打つのがやっとで、リーグ5位の30盗塁と俊足を見せつけたのが唯一の慰めだった。
■絶頂期での突然の現役引退、世間の度肝を抜いた野球挑戦
1990-91シーズンにレイカーズを下して初優勝を飾ると、92年は因縁のブレイザーズ、そして93年は悪友バークレーを擁するフェニックス・サンズを倒して3連覇を達成。もちろんファイナルMVPは3年ともジョーダンが受賞した。
だが、こうした成功(7年連続得点王やNBA3連覇)はジョーダンにとって克服すべき対象がなくなりつつあることを意味していた。新たな刺激を求めてギャンブルに耽溺し、その事実がマスコミに暴かれて非難を浴びたこともあり、プライバシーのない生活にも疲弊していた。
そして1993年8月、父親が強盗に射殺される悲劇的な事件が起きたことが引き金となり、ジョーダンは現役引退を発表した。
「自分がバスケットボールで証明しなければならないことはもう何もない。これからはもっと家族や妻や子どもたちと過ごし、普通の生活を送りたい」
とはいえ、“普通の生活”に彼が満足できるわけがなかった。新たなチャレンジの対象として見出したのが、子どもの頃はバスケットボールよりも好きだった野球だった。亡き父が最も愛したスポーツで成功を収めることで、父を失った悲しみを乗り越えようとしたのだ。
ブルズのオーナー、ジェリー・ラインスドーフが所有するシカゴ・ホワイトソックスに入団したジョーダンは、傘下のマイナーリーグ、ダブルAのバーミングハム・バロンズから野球選手としてのスタートを切った。
年収が3000分の1の選手たちとともに、泥だらけになって白球を追った。一切の特別扱いを拒み、10時間以上ものバス移動にも何一つ文句言わなかった。その真摯な姿勢に、はじめは懐疑的な目を向けていたチームメイトたちも感銘を受けた。もっとも、試合前に監督(現クリーブランド・インディアンス監督のテリー・フランコーナ)とトランプやゴルフに興じていたあたり、やはり普通のマイナーリーガーではなかったのだが。
「父に対する約束を果たしたい。失敗は恐れていない。挑戦しないことのほうがずっと嫌なんだ」
強い思いで野球に打ち込んだジョーダンだったが、現実は厳しかった。15年も本格的にプレーしていなかったスポーツを、すぐにこなせるわけはなかった。変化球を投げられる度にバットは空を切り、打率は辛うじて2割を上回る程度。127試合でホームランは3本打つのがやっとで、リーグ5位の30盗塁と俊足を見せつけたのが唯一の慰めだった。