大型新人ザイオン・ウィリアムソン(ニューオリンズ・ペリカンズ)の登場により、アスレティック系パワーフォワード(PF)に改めて光が当たるようになった。近年で言えばブレイク・グリフィン(デトロイト・ピストンズ)、過去に遡ればケニョン・マーティン(元ニュージャージー・ネッツほか)やラリー・ジョンソン(元シャーロット・ホーネッツ)ら数々の選手がNBAの歴史を彩ってきたが、象徴的存在の1人がショーン・ケンプ(元シアトル・スーパーソニックスほか)だろう。
異次元のパワーとスピード、40インチ(約101.6cm)を超える驚異のジャンプ力を誇り、“レインマン”の異名を取るほどダンクの雨を降らせる――。ソニックス時代に7年間コンビを組み、阿吽の呼吸でアリウープを連発した“相棒”ゲイリー・ペイトンも「ショーンとのコンビは最高だった」と称賛を惜しまないケンプは、1990年代のNBAで異彩を放ったスーパースターだった。
しかし、1997年のクリーブランド・キャバリアーズ移籍後は転落人生の一途。体重増加によるパフォーマンスの低下、ドラッグやアルコールの誘惑を断ち切れず、33歳だった2002-03シーズンを最後にNBAの舞台から姿を消した。
地元インディアナ州のコンコード高校では1年時からスターターとして活躍。体育館はケンプのプレーを一目見ようとするファンで毎試合埋め尽くされ、当時から有名大学はおろか、NBAのスカウトまでもが視察に訪れるほどの有望株だった。卒業間近に行なわれたマクドナルド・オールアメリカンでは、後にNBA入りするアロンゾ・モーニング、クリスチャン・レイトナー、クリス・ミルズらとともに注目を集めた。
リクルート合戦が繰り広げられるなか、ケンタッキー大への進学を選択したが、SAT(大学進学適性試験)の点数不足により、NCAAの規定で1年間プレー不可に。窃盗疑惑も重なり、1試合も出場することなく大学を後にした。短大編入を経て、89年ドラフト1巡目17位でNBA入りするが、半年程度の大学生活中にも“武勇伝”を残していたという。今回、『The Athletic』で当時のメンバーがケンプの怪物ぶりを回想している。
88年夏、ピックアップゲームでケンプはその名を轟かせた。ケンタッキー大のOBで、86年ドラフトでニューヨーク・ニックスから1巡目5位指名を受けたケニー・ウォーカーがオフシーズンのワークアウトで母校のチーム練習に参加していたなか、5歳年上の先輩相手に豪快なダンクを叩き込んだという。当時ケンプと同じ1年生フォワードだったジョン・ペルフリー(現テネシー工科大ヘッドコーチ)は、そのプレーをこのように表現する。
「当時はまだバックボードが木製だった。彼はコート中央でボールを受け取ると、サメが獲物を狙うような勢いでダンクに行った。ムチを打つように捻って叩き込み、リングとボードを真っ二つにしようとしていた」
異次元のパワーとスピード、40インチ(約101.6cm)を超える驚異のジャンプ力を誇り、“レインマン”の異名を取るほどダンクの雨を降らせる――。ソニックス時代に7年間コンビを組み、阿吽の呼吸でアリウープを連発した“相棒”ゲイリー・ペイトンも「ショーンとのコンビは最高だった」と称賛を惜しまないケンプは、1990年代のNBAで異彩を放ったスーパースターだった。
しかし、1997年のクリーブランド・キャバリアーズ移籍後は転落人生の一途。体重増加によるパフォーマンスの低下、ドラッグやアルコールの誘惑を断ち切れず、33歳だった2002-03シーズンを最後にNBAの舞台から姿を消した。
地元インディアナ州のコンコード高校では1年時からスターターとして活躍。体育館はケンプのプレーを一目見ようとするファンで毎試合埋め尽くされ、当時から有名大学はおろか、NBAのスカウトまでもが視察に訪れるほどの有望株だった。卒業間近に行なわれたマクドナルド・オールアメリカンでは、後にNBA入りするアロンゾ・モーニング、クリスチャン・レイトナー、クリス・ミルズらとともに注目を集めた。
リクルート合戦が繰り広げられるなか、ケンタッキー大への進学を選択したが、SAT(大学進学適性試験)の点数不足により、NCAAの規定で1年間プレー不可に。窃盗疑惑も重なり、1試合も出場することなく大学を後にした。短大編入を経て、89年ドラフト1巡目17位でNBA入りするが、半年程度の大学生活中にも“武勇伝”を残していたという。今回、『The Athletic』で当時のメンバーがケンプの怪物ぶりを回想している。
88年夏、ピックアップゲームでケンプはその名を轟かせた。ケンタッキー大のOBで、86年ドラフトでニューヨーク・ニックスから1巡目5位指名を受けたケニー・ウォーカーがオフシーズンのワークアウトで母校のチーム練習に参加していたなか、5歳年上の先輩相手に豪快なダンクを叩き込んだという。当時ケンプと同じ1年生フォワードだったジョン・ペルフリー(現テネシー工科大ヘッドコーチ)は、そのプレーをこのように表現する。
「当時はまだバックボードが木製だった。彼はコート中央でボールを受け取ると、サメが獲物を狙うような勢いでダンクに行った。ムチを打つように捻って叩き込み、リングとボードを真っ二つにしようとしていた」