“Tマック”ことトレイシー・マッグレディは現役時代、得点王に2回輝くなどリーグ屈指のスコアリングマシンとして鳴らし、2017年にはバスケットボール殿堂入りを果たした。今年1月にヘリコプター墜落事故に遭い急逝したコビー・ブライアントは、1歳違いで公私ともに親交が深かったが、Tマックにとって“神様”マイケル・ジョーダン以上の存在だと真剣に思っていたという。
マッグレディは1997年にマウントジオン・クリスチャン・アカデミー高を卒業し、同年のNBAドラフト1巡目9位でトロント・ラプターズへ入団する。3年間は従兄であるヴィンス・カーターの存在もあって主役の座は巡ってこなかったが、2000年のオーランド・マジック移籍を機に秘める得点能力が開花した。2002-03シーズンには平均32.1点、翌03-04シーズンには平均28.0点を挙げて得点王を獲得。ヒューストン・ロケッツ移籍後は中国人センターのヤオ・ミンとコンビを組んで存在感を示した。
1歳年上のコビーは、マッグレディより1年早くNBA入り。ロサンゼルス・レイカーズ一筋20年、優勝5回、歴代4位の通算3万3643得点を挙げるなど一時代を築いた。年齢が近く、高卒選手でポジションも同じということもあり、2人はライバルだったが、コートを離れれば一緒に過ごす機会も少なくなかったという。マッグレディはポッドキャスト番組『ALL THE SMOKE』で、当時を回想している。
「俺たちはアディダスと契約していて、高校から直接NBA入りした。彼に会いにLAへ行き、家に泊まったりもした。彼の母親はフライドチキン、マカロニなどを振舞ってくれたよ。2人でよく、ジョーダンの『Come Fly With Me』『Michael Jordan Playground』のビデオを見ていた。彼は一時停止しては巻き戻し、見たものを真似した。まるでジョーダンの偶像化に取りつかれたかのようだった」
コビーはキャリア2年目の97年、試合中にもかかわらずジョーダンに対して、フェイダウェイの秘訣を尋ねたのは有名な話。今年1月の追悼式でスピーチを務めたジョーダンも、「夜の22時半でも、深夜の2時や3時でも連絡してきた。ポストアップやフットワーク、トライアングルオフェンスのことを話した」と“質問攻め”にあったことを明かしている。
ブルズが最後に優勝した1997-98シーズンに密着して撮影したドキュメンタリー10部作『ザ・ラストダンス』が放映され、コビーやレブロン・ジェームズとの比較が再び熱を帯びた。ジョーダンの“歴代最強説”はやはり根強く、マッグレディも「マイケルは相手を超えることがモチベーションだった。俺はマイケルのレベルにはたどり着けなかったけど、スターダムというものは理解している。彼は世界的なアイコンだ」と称賛。ただ、その一方でコビーのほうが上だと思っていたという。
「俺がクラブに誘った時も、コビーは断ってジムでシューティングしていた。多くを学ばせてもらった。彼はタイトルを勝ち獲るために犠牲を厭わないように、俺も最高の得点王の称号を得ようと全力を尽くした。俺はコビーが19歳の頃からずっと一緒にいた。彼の思考は俺が今までに経験がしたことがないものだし、19歳の誰にも真似できないものだった。彼は本当にジョーダンよりも優れていると思っていた」
お互いにしのぎを削り、共通点も多かったからこそ、マッグレディはコビーの“神超え”を主張していた。
構成●ダンクシュート編集部
【PHOTO】20年間パープル&ゴールド一筋!史上最高の“レイカー”コビー・ブライアント特集!
マッグレディは1997年にマウントジオン・クリスチャン・アカデミー高を卒業し、同年のNBAドラフト1巡目9位でトロント・ラプターズへ入団する。3年間は従兄であるヴィンス・カーターの存在もあって主役の座は巡ってこなかったが、2000年のオーランド・マジック移籍を機に秘める得点能力が開花した。2002-03シーズンには平均32.1点、翌03-04シーズンには平均28.0点を挙げて得点王を獲得。ヒューストン・ロケッツ移籍後は中国人センターのヤオ・ミンとコンビを組んで存在感を示した。
1歳年上のコビーは、マッグレディより1年早くNBA入り。ロサンゼルス・レイカーズ一筋20年、優勝5回、歴代4位の通算3万3643得点を挙げるなど一時代を築いた。年齢が近く、高卒選手でポジションも同じということもあり、2人はライバルだったが、コートを離れれば一緒に過ごす機会も少なくなかったという。マッグレディはポッドキャスト番組『ALL THE SMOKE』で、当時を回想している。
「俺たちはアディダスと契約していて、高校から直接NBA入りした。彼に会いにLAへ行き、家に泊まったりもした。彼の母親はフライドチキン、マカロニなどを振舞ってくれたよ。2人でよく、ジョーダンの『Come Fly With Me』『Michael Jordan Playground』のビデオを見ていた。彼は一時停止しては巻き戻し、見たものを真似した。まるでジョーダンの偶像化に取りつかれたかのようだった」
コビーはキャリア2年目の97年、試合中にもかかわらずジョーダンに対して、フェイダウェイの秘訣を尋ねたのは有名な話。今年1月の追悼式でスピーチを務めたジョーダンも、「夜の22時半でも、深夜の2時や3時でも連絡してきた。ポストアップやフットワーク、トライアングルオフェンスのことを話した」と“質問攻め”にあったことを明かしている。
ブルズが最後に優勝した1997-98シーズンに密着して撮影したドキュメンタリー10部作『ザ・ラストダンス』が放映され、コビーやレブロン・ジェームズとの比較が再び熱を帯びた。ジョーダンの“歴代最強説”はやはり根強く、マッグレディも「マイケルは相手を超えることがモチベーションだった。俺はマイケルのレベルにはたどり着けなかったけど、スターダムというものは理解している。彼は世界的なアイコンだ」と称賛。ただ、その一方でコビーのほうが上だと思っていたという。
「俺がクラブに誘った時も、コビーは断ってジムでシューティングしていた。多くを学ばせてもらった。彼はタイトルを勝ち獲るために犠牲を厭わないように、俺も最高の得点王の称号を得ようと全力を尽くした。俺はコビーが19歳の頃からずっと一緒にいた。彼の思考は俺が今までに経験がしたことがないものだし、19歳の誰にも真似できないものだった。彼は本当にジョーダンよりも優れていると思っていた」
お互いにしのぎを削り、共通点も多かったからこそ、マッグレディはコビーの“神超え”を主張していた。
構成●ダンクシュート編集部
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