■優勝未経験に終わるも、抜群の勝負強さで名場面を演出
努力が実り、レジー・ミラーの名が世間に広く知れ渡ったのは1993-94シーズンだった。プレーオフでは毎年1回戦敗退を繰り返していたインディアナ・ペイサーズだったが、名将ラリー・ブラウンの指導もあって初めてイースタン・カンファレンス決勝に駒を進める。対戦相手はニューヨーク・ニックス。2勝2敗で迎えた第5戦、常々「ニックスは大嫌いなチーム」と公言していたミラーに、マディソンスクエア・ガーデンの観客は嵐のような罵声を浴びせた。
だが、そうした声を嘲笑うかのようにミラーはシュートを決め続ける。第4クォーターだけで5本の3ポイントを含む25得点、ゲーム全体で39得点を叩き出し、劇的な逆転勝利の立役者となった。
「あの時はすべてがスローモーションのように見えた。次に何が起こるかがはっきりと予測できたんだ。2時間ぐらいプレーしているように感じて、試合後はひどい頭痛に襲われたよ」
第6、7戦に連敗してNBAファイナルには進めなかったが、この大活躍でミラーは一躍全国区の人気を得る。翌1995年はカンファレンス準決勝で再びニックスと対戦。その初戦、ミラーはまたしても一世一代のパフォーマンスを演じてみせた。
第4クォーターも残り18.4秒の時点で、ペイサーズは8点のビハインド。敗色濃厚のこの状況下で、ミラーはまず3ポイントを決めると、直後にインバウンズパスをスティールし、再び3ポイントをお見舞いする。その後フリースローも沈め、連続8得点を奪い逆転勝ち。ニックスのデレック・ハーバーも「勝負強いプレーヤーたちのなかにあっても、ミラーは最高峰の1人だ」と脱帽した。
こうしたゲーム終盤の彼の活躍は、ビールのCМのコピーをもじって“ミラー・タイム”と呼ばれるようになった。
1996年のアトランタ・オリンピックでは、ドリームチームIIIのメンバーとして金メダルも獲得。残る目標はただひとつ“チャンピオンリングの獲得”だった。
努力が実り、レジー・ミラーの名が世間に広く知れ渡ったのは1993-94シーズンだった。プレーオフでは毎年1回戦敗退を繰り返していたインディアナ・ペイサーズだったが、名将ラリー・ブラウンの指導もあって初めてイースタン・カンファレンス決勝に駒を進める。対戦相手はニューヨーク・ニックス。2勝2敗で迎えた第5戦、常々「ニックスは大嫌いなチーム」と公言していたミラーに、マディソンスクエア・ガーデンの観客は嵐のような罵声を浴びせた。
だが、そうした声を嘲笑うかのようにミラーはシュートを決め続ける。第4クォーターだけで5本の3ポイントを含む25得点、ゲーム全体で39得点を叩き出し、劇的な逆転勝利の立役者となった。
「あの時はすべてがスローモーションのように見えた。次に何が起こるかがはっきりと予測できたんだ。2時間ぐらいプレーしているように感じて、試合後はひどい頭痛に襲われたよ」
第6、7戦に連敗してNBAファイナルには進めなかったが、この大活躍でミラーは一躍全国区の人気を得る。翌1995年はカンファレンス準決勝で再びニックスと対戦。その初戦、ミラーはまたしても一世一代のパフォーマンスを演じてみせた。
第4クォーターも残り18.4秒の時点で、ペイサーズは8点のビハインド。敗色濃厚のこの状況下で、ミラーはまず3ポイントを決めると、直後にインバウンズパスをスティールし、再び3ポイントをお見舞いする。その後フリースローも沈め、連続8得点を奪い逆転勝ち。ニックスのデレック・ハーバーも「勝負強いプレーヤーたちのなかにあっても、ミラーは最高峰の1人だ」と脱帽した。
こうしたゲーム終盤の彼の活躍は、ビールのCМのコピーをもじって“ミラー・タイム”と呼ばれるようになった。
1996年のアトランタ・オリンピックでは、ドリームチームIIIのメンバーとして金メダルも獲得。残る目標はただひとつ“チャンピオンリングの獲得”だった。