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NBA

史上最高のフォワード、ラリー・バード。“跳べない白人”が頂点を極めた3つの理由【NBAレジェンド列伝・前編】

出野哲也

2020.06.10

全盛期には3年連続でMVPに輝き、“レジェンド”と崇められたバード。彼が頂点を極めることが出来た理由とは。(C)Getty Images

全盛期には3年連続でMVPに輝き、“レジェンド”と崇められたバード。彼が頂点を極めることが出来た理由とは。(C)Getty Images

■現代まで語り継がれる偉人ラリー・バードとは?

 身体能力はさほど高くないが、シュート力のある白人フォワードが現れるたび、彼らは決まってこう呼ばれる。“ラリー・バード二世”と。

 1980年代にはクリス・マリン、90年代にはキース・ヴァンホーン、2000年代はアダム・モリソンも、そうした期待を背負ってNBAの世界に飛び込んだ。だが、彼らの誰一人としてバードの域に達しなかった。

 バードには確かにシュート力はあったが、それは彼の持っていた数多くの優れた能力の一部分に過ぎなかった。彼とその他の“バード二世”の間には、埋めることができない大きな差がある。

 バードが傑出した選手になった秘密は、少年時代の環境にあったのかもしれない。彼が育ったのは、インディアナ州フレンチリックという人口2000人あまりの小さな町だった。全米で最もバスケットボール熱が高いインディアナの空気を吸って育ったバードは、当然のようにバスケットボールに魅せられていった。
 
 父親が酒びたりだったこともあってバード家は貧しく、ラリーや兄弟たちはしばしば祖母宅に預けられていた。内気な性格であまり友人も多くなかった彼にとって、バスケットボールはほとんど唯一の娯楽だった。

 高校で活躍したバードは、奨学生として名門インディアナ大の門を叩いた。ところが大学に馴染むことができず、わずか1か月足らずで退学してしまう。しかし、彼の才能を惜しんだインディアナ州大のヘッドコーチに勧誘され、同校に入学。弱小校の気安さもあって伸び伸びとプレーすることができ、本来の実力を発揮し始めた。

 間もなく全米の注目を浴びるまでに成長したバード。当時は転校等の事情で卒業年が1年伸びても、大学入学から4年後にはドラフトの対象となった。この「ジュニア・エリジブル・ルール」を利用し、ボストン・セルティックスは3年生(インディアナ大時代を含めると4年扱い)のバードを1巡目6位で指名した。だが、バードはすぐにはプロ入りせず大学に留まった。

 79年、最終学年となったバード率いるインディアナ州大は快進撃を演じた。シーズンを通じて無敗のままNCAA選手権へと駒を進め、準決勝でデポール大を下した時点で33連勝となった。決勝戦の相手は、アービン・“マジック”ジョンソンを擁するミシガン州大だった。
 
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