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NBA

ジュリアス・アービングーー。コート内外で模範的な紳士だった華麗なるダンク・アーティスト【NBAレジェンド列伝・前編】

出野哲也

2020.12.04

人々に“ダンク・アーティスト”として記憶されているアービングだが、優れた人間性も賞賛の的だった。(C)Getty Images

人々に“ダンク・アーティスト”として記憶されているアービングだが、優れた人間性も賞賛の的だった。(C)Getty Images

 ジュリアス・アービング。“ドクターJ”の異名でも知られるこの選手の名前を聞いた時、10人中10人が華麗なダンク・アーティストを思い浮かべることだろう。

 そうした認識が間違っているわけではない。引退して30年以上過ぎてもなお、アービングのダンクは現代の選手やファンに鮮烈な印象を与え続けているからだ。けれども、そうした一面が強調されるあまり、彼がどれだけ選手として、そして人間として優れていたのかが忘れられかけている感もなくはない。
 
■ダンクを新しい芸術へと昇華させたアービング

 “ドクターJ”のニックネームの由来は、アービングが友人の1人をプロフェッサー(教授)と呼んでいたのに対し、その友人からドクター(博士)と名づけられたというものだ。そしてプロ入りに際し、それにジュリアスのJを加えた“ドクターJ”が誕生。バスケットボールのプレースタイルを反映したものではなかったが、卓越した技術と品格を備えた彼にはぴったりだった。

 高校時代までは大して注目された選手ではなく、マサチューセッツ大に進学後に平均20点、20リバウンドを記録するようになっても、まだ真価は発揮されていなかった。当時のNCAAでは、試合中のダンクを禁止していたためである。その頃のアービングを知る『ボストン・グローブ』紙の名物記者、ボブ・ライアンは「プロでもリバウンダーとしては通用するな、という印象だった。あのような選手になるとは想像できなかった」と回想する。アービングがただの好選手でなく、バスケットボールの歴史を変える存在であるとは、プロ入りするまでわからなかった。

 1971年、アービングはNBAのライバルリーグだったABAのバージニア・スクワイアーズに入団。その恐るべき才能は、トレーニングキャンプの初日に明らかになった。当時スクワイアーズのフロントで働いていたジョニー・“レッド”カーの脳裏には、その時の記憶が鮮明に残っている。

「シュートがリムに当たって高く跳ね上がり、何人かがリバウンドに跳んだ時だ。ジュリアスはほかの誰よりも高く跳び上がり、そのまま空中で止まって片手でボールを摑み、リングに叩きこんだ。みんなが唖然として、アリーナが静まり返ったよ」
 
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