“バスケットボールの神様”と呼ばれたマイケル・ジョーダンは、シカゴ・ブルズ時代に1991~93年、96~98年と2度の3連覇を果たした。驚異的なジャンプと滞空力、勝利への執着心は特徴としてこれまで何度も語られてきたが、元同僚のスコット・ウィリアムズは“見逃されている凄み”にスピードを挙げている。
【PHOTO】引退後もその影響力は絶大!NBAの頂点に君臨するバスケットボールの”神様”マイケル・ジョーダン特集
『HOOPSHYPE』では、ジョーダンとレブロン・ジェームズ(現ロサンゼルス・レイカーズ)という史上最高のプレーヤーを争う2人と一緒にプレーした経験を持つウィリアムズ、ラリー・ヒューズ、ジェリー・スタックハウス、ブレンダン・ヘイウッドを直撃。そのなかで唯一、1993年の最初の引退前を知るウィリアムズがジョーダンについて興味深いコメントを残している。
1990年にドラフト外でブルズ入りしたビッグマンのウィリアムズは94年までジョーダンと共闘。スーパースターでありながら、分け隔てなく若手にも接し、移動の飛行機内ではルーキーやノンギャランティ契約の選手たちも交えてカードゲームに興じていたという。
「その輪の中にいると、本当の愛を感じた。私たちには友情と絆があった」
ジョーダンは1991年に初優勝を果たすまで、スコッティ・ピッペンら同僚を信頼してプレーを託すよりも、自らの個人技で勝負する傾向にあり、88~90年には“バッドボーイズ”ことデトロイト・ピストンズに3年連続でプレーオフ敗退の苦渋を味わった。ウィリアムズがNBA入りした当初から、ジョーダンはのちに新たな武器となるローポストプレーなどを磨く努力をしていたという。
「私がリーグに入って最初の2年(1990~92年)、MJはローポストゲームやゴールを背にしたプレーを進化させたいと考えていた。全体練習後、これでもかと言うくらい1オン1をやったよ。自分よりも大きく、タフな選手を交わそうと取り組んでいた。私は1オン1で一度も勝ったことはない。可能性があるとしたら、彼がトラベリングをした時くらいだった(笑)。彼は他の選手を選ぶこともできたのに、ドラフト外の私に、向上心への飢えを感じたんだろう。いつも私を相手に選んでくれたのは本当にクールだったよ。同じノースカロライナ大出身ということも大きかったかもしれない」
【PHOTO】引退後もその影響力は絶大!NBAの頂点に君臨するバスケットボールの”神様”マイケル・ジョーダン特集
『HOOPSHYPE』では、ジョーダンとレブロン・ジェームズ(現ロサンゼルス・レイカーズ)という史上最高のプレーヤーを争う2人と一緒にプレーした経験を持つウィリアムズ、ラリー・ヒューズ、ジェリー・スタックハウス、ブレンダン・ヘイウッドを直撃。そのなかで唯一、1993年の最初の引退前を知るウィリアムズがジョーダンについて興味深いコメントを残している。
1990年にドラフト外でブルズ入りしたビッグマンのウィリアムズは94年までジョーダンと共闘。スーパースターでありながら、分け隔てなく若手にも接し、移動の飛行機内ではルーキーやノンギャランティ契約の選手たちも交えてカードゲームに興じていたという。
「その輪の中にいると、本当の愛を感じた。私たちには友情と絆があった」
ジョーダンは1991年に初優勝を果たすまで、スコッティ・ピッペンら同僚を信頼してプレーを託すよりも、自らの個人技で勝負する傾向にあり、88~90年には“バッドボーイズ”ことデトロイト・ピストンズに3年連続でプレーオフ敗退の苦渋を味わった。ウィリアムズがNBA入りした当初から、ジョーダンはのちに新たな武器となるローポストプレーなどを磨く努力をしていたという。
「私がリーグに入って最初の2年(1990~92年)、MJはローポストゲームやゴールを背にしたプレーを進化させたいと考えていた。全体練習後、これでもかと言うくらい1オン1をやったよ。自分よりも大きく、タフな選手を交わそうと取り組んでいた。私は1オン1で一度も勝ったことはない。可能性があるとしたら、彼がトラベリングをした時くらいだった(笑)。彼は他の選手を選ぶこともできたのに、ドラフト外の私に、向上心への飢えを感じたんだろう。いつも私を相手に選んでくれたのは本当にクールだったよ。同じノースカロライナ大出身ということも大きかったかもしれない」