2020年1月26日、世界中が悲しみに暮れたロサンゼルス・レイカーズのレジェンド、コビー・ブライアントの事故死。あれから約1年……。コビーの肉体は滅びたが、その勇姿はファンの心に永遠に刻み付けられている。ここでは彼の20年の激闘譜のなかから、後世に語り継ぐべき名勝負を紹介する。
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■2006年1月22日 vsトロント・ラプターズ
1962年3月2日、ウィルト・チェンバレン(当時サンフランシスコ・ウォリアーズ)が打ち立てた1試合100得点という金字塔に、最も近づいたのが2005-06シーズンのコビー・ブライアントだった。
当時のコビーは27歳と選手として脂が乗り切っており、同年は平均35.4点という驚異的な数字をマーク。開幕から順調に得点を積み重ねていたなか、迎えたのがシーズンも折り返し地点を迎えようとしていた1月22日、ホームのステイプルズ・センターで行なわれたラプターズ戦だった。
この日、ラプターズが他球団と同じようにダブルチームやトリプルチームを仕掛けてこなかったこともあり、コビーは序盤から次々と得点を奪い前半だけで26得点をマーク。しかしレイカーズはディフェンスが緩くラプターズに大量得点を許し、前半で49-63と14点のビハインドを背負ってしまう。
2年ぶりのプレーオフ進出を狙うレイカーズにとって、この試合まで14勝26敗と低迷していた格下のラプターズに不覚を取るなど絶対に許されないこと。にもかかわらず、後半開始早々には18点までリードを広げられていた。
この苦境で一段ギアを上げたのがコビーだった。第3クォーターだけで27得点を奪うと、最終クォーターでも果敢に攻め続けて28得点。ダンク、ミドルジャンパー、3ポイントなど、あらゆる手段で得点を積み重ね、その数字はついに81――後半だけで55得点――チェンバレン以来となる80点の大台を突破したのだ。
試合残り43.4秒、コビーがフリースローを冷静に沈めると、アリーナ中から地元の英雄を称えるMVPコールが響き渡った。かつてブルズでマイケル・ジョーダンを指揮し、数々の名場面を見届けてきた経験のあるフィル・ジャクソンHCも、「これまで素晴らしいゲームをいくつか見てきたが、これほどのものは見たことがない」と手放しで称賛。
指揮官は、コビーが77得点を記録した時点で彼をベンチへ下げようとしたが、1961年にチェンバレンが記録した78得点を更新するチャンスを奪ったら「LA中で暴動が起こるだろう」とフランク・ハンブレンACと話し合い、コート内にとどめたという。
この歴史的な快挙に、周囲の人間も興奮を隠しきれなかったようだ。試合後、チームメイトやスタッフはスコアのシートを手に、コビーの元へ駆け寄りサインをねだった。当時のチームオーナーであるジェリー・バスも「奇跡が起きる場面を見るようなもの」と表
現した。アリーナのPAアナウンサーだったローレンス・タンターは、その日会場に詰め掛けた1万8997人のファンにチケットの半券を取っておくよう呼びかけた。
なお、この日の観客の中にはコビーの祖母もいた。彼女がコビーのプロとしてのプレーを会場で観たのはこの日が初めてで、唯一の試合だった。歴史的なゲームが観戦デビューとは、彼女にとってもスペシャルな思い出になったに違いない。
文●大橋哲也
※ダンクシュート『コビー・ブライアント追悼号』原稿に加筆・修正
【PHOTO】「Mr.レイカーズ」&「Mr.NBA」史上最高のスーパースター、コビー・ブライアント特集!
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■2006年1月22日 vsトロント・ラプターズ
1962年3月2日、ウィルト・チェンバレン(当時サンフランシスコ・ウォリアーズ)が打ち立てた1試合100得点という金字塔に、最も近づいたのが2005-06シーズンのコビー・ブライアントだった。
当時のコビーは27歳と選手として脂が乗り切っており、同年は平均35.4点という驚異的な数字をマーク。開幕から順調に得点を積み重ねていたなか、迎えたのがシーズンも折り返し地点を迎えようとしていた1月22日、ホームのステイプルズ・センターで行なわれたラプターズ戦だった。
この日、ラプターズが他球団と同じようにダブルチームやトリプルチームを仕掛けてこなかったこともあり、コビーは序盤から次々と得点を奪い前半だけで26得点をマーク。しかしレイカーズはディフェンスが緩くラプターズに大量得点を許し、前半で49-63と14点のビハインドを背負ってしまう。
2年ぶりのプレーオフ進出を狙うレイカーズにとって、この試合まで14勝26敗と低迷していた格下のラプターズに不覚を取るなど絶対に許されないこと。にもかかわらず、後半開始早々には18点までリードを広げられていた。
この苦境で一段ギアを上げたのがコビーだった。第3クォーターだけで27得点を奪うと、最終クォーターでも果敢に攻め続けて28得点。ダンク、ミドルジャンパー、3ポイントなど、あらゆる手段で得点を積み重ね、その数字はついに81――後半だけで55得点――チェンバレン以来となる80点の大台を突破したのだ。
試合残り43.4秒、コビーがフリースローを冷静に沈めると、アリーナ中から地元の英雄を称えるMVPコールが響き渡った。かつてブルズでマイケル・ジョーダンを指揮し、数々の名場面を見届けてきた経験のあるフィル・ジャクソンHCも、「これまで素晴らしいゲームをいくつか見てきたが、これほどのものは見たことがない」と手放しで称賛。
指揮官は、コビーが77得点を記録した時点で彼をベンチへ下げようとしたが、1961年にチェンバレンが記録した78得点を更新するチャンスを奪ったら「LA中で暴動が起こるだろう」とフランク・ハンブレンACと話し合い、コート内にとどめたという。
この歴史的な快挙に、周囲の人間も興奮を隠しきれなかったようだ。試合後、チームメイトやスタッフはスコアのシートを手に、コビーの元へ駆け寄りサインをねだった。当時のチームオーナーであるジェリー・バスも「奇跡が起きる場面を見るようなもの」と表
現した。アリーナのPAアナウンサーだったローレンス・タンターは、その日会場に詰め掛けた1万8997人のファンにチケットの半券を取っておくよう呼びかけた。
なお、この日の観客の中にはコビーの祖母もいた。彼女がコビーのプロとしてのプレーを会場で観たのはこの日が初めてで、唯一の試合だった。歴史的なゲームが観戦デビューとは、彼女にとってもスペシャルな思い出になったに違いない。
文●大橋哲也
※ダンクシュート『コビー・ブライアント追悼号』原稿に加筆・修正
【PHOTO】「Mr.レイカーズ」&「Mr.NBA」史上最高のスーパースター、コビー・ブライアント特集!