2020年1月26日、世界中が悲しみに暮れたロサンゼルス・レイカーズのレジェンド、コビー・ブライアントの事故死。あれから約1年……。コビーの肉体は滅びたが、その勇姿はファンの心に永遠に刻み付けられている。ここでは彼の20年の激闘譜のなかから、後世に語り継ぐべき名勝負を紹介する。
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■2003年3月28日 vsワシントン・ウィザーズ
3年間に及ぶ“2度目の引退” 期間を経て、2001年に三たびNBAに戻ってきたマイケル・ジョーダン。しかし、ブランクや加齢によって以前のような神にも擬せられた選手ではなくなっていた。40歳となる2002-03シーズンには開幕後間もなく同年限りで引退すると宣言。3月28日のレイカーズ戦はロサンゼルスで最後の試合とあって、レイカーズファンも大声援をジョーダンに送っていた。
だが、そのような“ぬるい”雰囲気をコビーは許さなかった。ジョーダンの後継者であると自他ともに認めていたコビーだったが、11月8日のシーズン最初の対戦で敗れた際に「こんなようでは私の後は任せられないな」と挑発されていた。憤怒のあまり、コビーはそれから2週間もチームメイトと会話をしなかったほどで、逆襲の機会をずっと待っていたのだ。
ジョーダンも試合開始直後から次々シュートを決め、第1クォーターだけで13得点を稼いだ。だがコビーの気合いの入り方はその上をいっていた。第1クォーターは19点、第2クォーターにはさらにギアを上げ23点を追加。11本中8本の3ポイントを沈め、ハーフでの球団記録となる42得点を叩き出して、観客席のムードもコビー一色に塗り替えられた。フィル・ジャクソンHCが「80点くらい取るのでは?と思えた。彼の頭の中にもそれがよぎったのではないかな」と言っていたくらいで、80点どころかウィルト・チェンバレンの100得点に届くことさえ不可能でないように思われた。
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■2003年3月28日 vsワシントン・ウィザーズ
3年間に及ぶ“2度目の引退” 期間を経て、2001年に三たびNBAに戻ってきたマイケル・ジョーダン。しかし、ブランクや加齢によって以前のような神にも擬せられた選手ではなくなっていた。40歳となる2002-03シーズンには開幕後間もなく同年限りで引退すると宣言。3月28日のレイカーズ戦はロサンゼルスで最後の試合とあって、レイカーズファンも大声援をジョーダンに送っていた。
だが、そのような“ぬるい”雰囲気をコビーは許さなかった。ジョーダンの後継者であると自他ともに認めていたコビーだったが、11月8日のシーズン最初の対戦で敗れた際に「こんなようでは私の後は任せられないな」と挑発されていた。憤怒のあまり、コビーはそれから2週間もチームメイトと会話をしなかったほどで、逆襲の機会をずっと待っていたのだ。
ジョーダンも試合開始直後から次々シュートを決め、第1クォーターだけで13得点を稼いだ。だがコビーの気合いの入り方はその上をいっていた。第1クォーターは19点、第2クォーターにはさらにギアを上げ23点を追加。11本中8本の3ポイントを沈め、ハーフでの球団記録となる42得点を叩き出して、観客席のムードもコビー一色に塗り替えられた。フィル・ジャクソンHCが「80点くらい取るのでは?と思えた。彼の頭の中にもそれがよぎったのではないかな」と言っていたくらいで、80点どころかウィルト・チェンバレンの100得点に届くことさえ不可能でないように思われた。
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