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カール・マローン――“メールマン”と呼ばれたスコアリングマシンの知られざる物語【レジェンド列伝・前編】<DUNKSHOOT>

出野哲也

2021.09.15

マローンはNBAでいち早くウェイトトレーニングを取り入れ、インサイドで戦える強靭な肉体を手に入れた。(C)Getty Images

マローンはNBAでいち早くウェイトトレーニングを取り入れ、インサイドで戦える強靭な肉体を手に入れた。(C)Getty Images

 最近のNBAでは、スター選手に魅力的なニックネームがつけられなくなっている。“CP3”や”KD”はイニシャルやそのアレンジで、“キング・ジェームズ””グリーク・フリーク”もプレースタイルを想起させるものではない。

 また、“エア・ジョーダン”“ヒューマン・ハイライト・フィルム”“グライド”など、創造的なニックネームがあふれていた1980~90年代を懐かしむ人も多いのではないだろうか。

 カール・マローンに与えられた“メールマン”もそうした傑作のひとつだ。ほとんどの試合に出続け、常に20点以上の得点をゴールに届け続けた史上屈指のスコアリングマシンを表現するうえで、これほど的確なネーミングはなかっただろう。

 そんなマローンはルイジアナ州に生まれた。9人兄弟の8番目で、4歳の時に父が家を去ってからは、母シャーリーの手で育てられた。小さい頃は札付きの悪ガキだったが、昼間は工場でフォークリフトを操り、夜は子育てに奮闘する母の姿を見て育つうちに、何事にも全力を尽くして取り組む姿勢が植えつけられていった。

“メールマン”と呼ばれるようになったのは、その母の勧めで進学した地元のルイジアナ工科大学時代だった。ある大雨の日、マローンの試合を観戦していた新聞記者が「雨の日も雪の日も、ダブルチームでも"メールマン"は止められない」と書いたのがきっかけだった。

 この記者も、自分の命名が30年後まで残ると思っていなかっただろう。なお、3年生の時に参加したロサンゼルス五輪代表選考会では、未来のパートナー、ジョン・ストックトンと初めて出会っている。
 
 85年のドラフトでは13位でユタ・ジャズから指名され「ユタ市でのプレーが楽しみです」と抱負を述べた。彼はユタが都市ではなく州名であることすら知らなかったのだ。それでも雑音や重圧の少ないユタは、マローンがバスケットボールだけに打ち込むには格好の地だった。

 パワーフォワードでありながらガード並みの走力を備え、ジャンプシュートも楽々と決める彼のプレースタイルは、ゴール下での汚れ仕事を請け負う選手が大半だったポジションのイメージを一新するものだった。

 4年目の88-89シーズンは平均29.1点で得点ランキング2位。マイケル・ジョーダンがいたためにタイトルは取れなかったものの、以後4年連続で2位につけた。リバウンドも常に上位に入り、同年から11年連続でオールNBA1stチームに選出された。
 
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