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NBA

「信じられないほど素晴らしい」“最高の友”オラジュワンとドレクスラーが叶えた12年越しの夢【NBAデュオ列伝|後編】

出野哲也

2022.02.02

1995年にドレクスラー(右)が加入しオラジュワンと(左)再びタッグを結成。同年のプレーオフでは史上初となる第6シードからの優勝を成し遂げた。(C)Getty Images

1995年にドレクスラー(右)が加入しオラジュワンと(左)再びタッグを結成。同年のプレーオフでは史上初となる第6シードからの優勝を成し遂げた。(C)Getty Images

■苦しい時代を経てロケッツで再会を果たす

 ドレクスラーとオラジュワン、2人のうち、最初にファイナルの大舞台に進んだのはオラジュワンだった。ラルフ・サンプソンとのツインタワーで1986年にウエスタンを制し、優勝を懸けてボストン・セルティックスと戦った。敗れはしたが、オラジュワンはファイナル記録タイの1試合8ブロックを記録するなど活躍した。

 何より人々の脳裏に焼き付いたのは、身長213cmの巨人と思えないほど軽やかなフットワークだった。鈍重な大型センターを翻弄するその動きを、人はやがて〝ドリーム・シェイク″と呼ぶようになった。

「棒高跳びで7メートル跳んだり、1600メートルを3分で走る選手など考えられないだろう? でもアキームを見ていると、それと同じ衝撃を受ける。あれだけの大きさと強さを兼ね備えた人間が、あれほど素早い動きができるとは」(ロケッツGM、レイ・パターソン)。前途洋々のロケッツには、この先優勝する機会はすぐに巡ってくるように思われた。
 
 ブレイザーズも徐々にチーム力を向上させ、90年にドレクスラー入団後初めてファイナルに進出したが、デトロイト・ピストンズの前に敗退。92年にも再びファイナルの舞台に帰ってきたが、ジョーダン率いるシカゴ・ブルズに完敗した。

 同じシューティングガードであり、プレースタイルも似ていることから、ドレクスラーは何かにつけジョーダンと比較された。そのため、このファイナルは戦前から、〝ジョーダンVSドレクスラー″として喧伝されたが、格の違いを見せてやろうと集中力を高めていたジョーダンの餌食にされてしまった。
 
 この年の夏にはバルセロナ五輪のドリームチームに選ばれるなど、個人としてはスーパースターの座を揺るぎないものとしていたドレクスラーだったが、究極の目標でもあるチャンピオンリングには手が届かないままだった。

 ドレクスラーがあと一歩の壁を破れずにいる頃、オラジュワンも苦しい時期を迎えていた。ロケッツはサンプソンの故障でツインタワーが機能しなくなり、強豪揃いのウエスタンで埋もれた存在になっていた。そんな状況に不満を抱いたオラジュワンはフロントと衝突し、公然とトレードを要求した。

 しかし、92年のジャパンゲームへ向かう飛行機の中で新たな契約に合意。心機一転したオラジュワンは、選手として一段高いレベルに上り詰める。94年にはMVPに選ばれ、ロケッツのウエスタン優勝の原動力となっただけでなく、ニューヨーク・ニックスとのファイナルでは因縁のユーイングを圧倒。念願の王座を勝ち取り、ファイナルMVPも手にした。

 オラジュワンの優勝をドレクスラーも喜んだ。そして羨ましく思った。ブレイザーズはファイナルに進んだ頃に比べ下り坂にさしかかっており、チームも衰えの見え始めたドレクスラーを整理する機会を窺っていた。

 その日は突然やって来た。95年2月14日に移籍が決まり、“ドレクスラー、ヒューストンへ”の見出しが翌日の新聞を飾った。オーティス・ソープとの交換で、トレイシー・マレーとともにロケッツへトレードされたのだ。
 
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