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「チャンピオンの鑑だった」ジョーダンの相棒ピッペンもラッセルを追悼「現代の有色人種のアスリートに恩恵をもたらした」<DUNKSHOOT>

ダンクシュート編集部

2022.08.03

ラッセル氏はNBA最多となる11回の優勝を成し遂げた真の勝者だった。(C)Getty Images

 現地時間7月31日、1950年代後半から60年代にかけてボストン・セルティックスで活躍したビル・ラッセル氏が88歳で亡くなった。

 彼の死後、多くのNBA選手や関係者がラッセル氏を追悼。1990年代にシカゴ・ブルズを6度の優勝に導き、バスケットボールの神様と言われるマイケル・ジョーダンは、「すべての黒人選手のパイオニア。私を含め、彼以降にリーグ入りしたすべての黒人選手たちの道を切り開き、模範を示してくれた。世界はレジェンドを失った。彼の家族に哀悼の意を表し、ご冥福をお祈りいたします」とコメントした。

 そして現役時代にジョーダンの相棒を務めたスコッティ・ピッペンも自身のSNSにメッセージを投稿。偉大なレジェンドを追悼している。

「ビル・ラッセル氏は、あらゆる意味でチャンピオンの鑑だった。彼は壁を打ち破り、コート上で数々の成功を収めた革新者であり、コート外でも同様に影響力のある人物だった。
 
 逆境や障害に立ち向かい、それを乗り越え、その勝利は次世代のNBA選手だけでなく、現代すべての有色人種のアスリートたちに恩恵をもたらした。なんという人生、なんというレガシーだろうか。彼の妻、家族、友人、そして彼の人生に触れたすべての人に哀悼の意を表します」
 
 ラッセル氏は1956年にセルティックスに入団し、恵まれた体格と身体能力を生かしてリーグ最高のディフェンダーとして君臨。69年の引退まで8連覇(59~66)を含む優勝11回、シーズンMVP5回、オールNBAチーム選出11回、リバウンド王5回、オールスター出場12回といった輝かしい実績を残した。

 66年には北米プロスポーツ史上初の黒人ヘッドコーチ(HC)に就任し、選手兼HCとして2度の優勝を達成。リーグはその功績を称え、2009年からファイナルMVPのトロフィーにラッセル氏の名が冠されている。

 コート外では黒人差別とも戦い、公民権運動の先駆者になるなど、スポーツ界以外にも多大な影響をもたらしたラッセル氏。彼が遺したレガシーは未来永劫語り継がれていくだろう。

構成●ダンクシュート編集部
 
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