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マジック・ジョンソン——笑顔の“魔法使い”が掴んだ早すぎる成功と苦悩の日々【レジェンド列伝・前編】<DUNKSHOOT>

出野哲也

2023.01.01

史上初となる新人でのファイナルMVP受賞など、早くから成功を掴んだマジック。しかしその後は苦悩の日々が続く。(C)Getty Images

 人間の運命は、ほんのちょっとした出来事で変わる。

 1979年のNBAドラフト。 全体1位指名権は、イースタン・カンファレンス最下位のシカゴ・ブルズと、 ウエスタン・カンファレンス最下位のニューオリンズ・ジャズ (現ユタ・ジャズ) から権利を譲り受けたロサンゼルス・レイカーズによるコイントスで決まる予定となっていた。ブルズは表をコールしたが、文字通り裏目に出た結果、ドラフトの目玉だったミシガン州大のアービン・"マジック"ジョンソンは、後者の手に落ちた。

 もしマジックがブルズに入っていたら——。宿命のライバル、ラリー・バードは同じイーストのボストン・セルティックスに入団したから、最高の舞台であるNBAファイナルでの対決はなかった。カリーム・アブドウル・ジャバーという絶好のパートナーにも恵まれず、マジック自身はチャンピオンリングを手にできなかった可能性もある。そしてマジックが入れば、1980年代初期のブルズは下位に低迷せず、1984年のドラフトでマイケル・ジョーダンの獲得もなかったはずだ。

 しかし、天の配剤でマジックはレイカーズに入団した。マジックとバードのライバル対決やレイカーズのショータイム・バスケットはすべて現実のものとなり、NBAは今日の隆盛を築くことができた。 運命のコインが裏を向いたこと、それ自体が一種の"マジック"だった。
 
■NBAの常識を覆した天才"マジック"ジョンソン

 "マジック"のニックネームは15歳の時、彼のプレーを観戦した新聞記者フレッド・ステイブリー・ジュニアによって命名された。

「子どもの頃は一日中練習していたよ。買い物に出かける時には右手でドリブルして、帰る時には左手。寝る時もバスケットボールを抱いていた」

 それほどバスケットの虜になっていたアービン少年が、地元では知らぬ者のない好選手になったことには何の不思議もなかった。

 彼のプレースタイルはあらゆる点で規格外だった。206cmとセンターが務まるほどの身長にして、ポジションはポイントガード。ドリブルやボールハンドリングの腕前もさることながら、何より優れていたのはプレーメーキングの才覚だった。チームメイトがどこにいるかを瞬時に判断でき、華麗にして正確なパスを繰り出した。
 
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マジックの“もうひとつの才能”