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パトリック・ユーイングーーNBAのドラフト制度を変えた"ニックスの象徴"【レジェンド列伝・前編】<DUNKSHOOT>

出野哲也

2023.03.15

1985年のドラフト1位でニックス入りしたユーイング。1年目に新人王に輝いたがチームは下位に低迷するなど、最初の数年間は苦戦が続いた。(C)Getty Images

 NBAの新人ドラフトは、抽選の要素を盛り込んだロッタリー制を採用している。そのきっかけになったのは、のちに初代ドリームチームの一員にもなった名センター、パトリック・ユーイングである。

 大学バスケット界最高のセンターだったユーイングを獲得するために、レギュラーシーズンをわざと悪い成績で終え、1位指名権を得ようとするチームが出ないようにロッタリー制は導入されたのだ。

 それほどの逸材だったユーイングだが、NBAでのキャリアは順風満帆ではなかった。大学時代からライバルとしてしのぎを削った2人の選手が、彼の行く手を阻んだのである。

高校時代に"ビル・ラッセルの再来"と言われたユーイング

 ユーイングが生まれたのはカリブ海の島国ジャマイカだった。11歳の時にアメリカに移住し、バスケットボールと出会う。「公園で子どもたちがプレーしているのを見て興味を持ったんだ。ジャマイカではサッカーやクリケットをやっていたけど、あまり面白いとは思わなかったな」

 ルールを一から覚えるところからスタートしたが、天性の素質と不断の努力でたちまち上達。身長を生かしたブロックショットが得意で、高校時代のコーチからは「ビル・ラッセルの再来」と言われた。進学先に決めたジョージタウン大のヘッドコーチ、ジョン・トンプソンはプロ時代、ボストン・セルティックスでラッセルのバックアップを務めていた。センターの育成にかけては全米一の名伯楽の下、ユーイングの才能は磨かれていった。
 
 1982年のNCAAトーナメントでは、決勝でノースカロライナ大と対戦。試合時間残り17秒の時点までリードしていながら、同じ1年生選手のマイケル・ジョーダンに決勝シュートを沈められて敗れた。翌83年は2回戦で敗退したが、続く84年は再び決勝へ進出。対戦相手はアキーム・オラジュワンを擁するヒューストン大だった。

 ポジションが同じセンターであるだけでなく、外国出身 (ナイジェリア)で子どもの頃はサッカーのゴールキーパーと、数多くの共通点を持つオラジュワンは、ユーイングの終生のライバルとなる。

 ユーイングはオラジュワンに抑え込まれながらも、チームは84-75で勝利を収めた。同年はロサンゼルス五輪のメンバーにも選ばれ(当時すでにアメリカ国籍を取得していた)、ジョーダンらとともに金メダルを手にする最高の年となった。

 最終学年の85年に3度目の決勝へと駒を進めたものの、ビラノバ大に敗れて連覇は逃がした。それでもファイナル4の最優秀選手に選ばれ、トップセンターとしての地位を確固たるものとした。
 
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