マイケル・ジョーダンがいなければ人生が変わっていた、という選手は何人もいる。ジョン・ストックトンやカール・マローン、チャールズ・バークレーらは、ジョーダンに阻まれなければ優勝を経験していただろうし、逆にスコッティ・ピッペンやホーレス・グラントあたりは“いい選手だけど優勝には縁がなかった”と言われていたのかもしれない。
クライド・ドレクスラーも、ジョーダンとは切っても切れない縁がある。同じシューティングガードで、体型やプレースタイルも似ていたためジョーダンの劣化版として扱われることもあった。
しかし、ドレクスラーが他の選手たちと異なるのは、彼自身がジョーダンの運命を変える役を担っていたことである。彼がいなければ、ジョーダンはシカゴ・ブルズのユニフォームを着てはいなかったかもしれないのだから。
ドレクスラーはニューオリンズ生まれだが、育ったのはヒューストンだった。NBAでの彼の華麗なプレーぶりを目にしていた者からは信じられないことに、少年時代は動きも鈍ければジャンプ力も乏しく「ピックアップゲームではいつも最後まで選ばれない」程度の実力だった。
12歳になって通い始めたマーシャルアーツ教室がきっかけで、厳しく心身を鍛え上げる面白さに目覚め、高校ではあらゆるスポーツで活躍。ヒューストン・ロケッツの選手との親交もあって、練習に参加させてもらったこともあった。
もっとも、この時点ではまだ広く名前を知られてはおらず「奨学金の申し出は片手で足りるほどだった」(ドレクスラー)。ヒューストン大に進学したのも熱烈に勧誘されたのではなく、単に地元の学校だからとの理由だった。
■盟友オラジュワンと出会いNCAA選手権決勝に進出
それでも「みんながパーティーをしている間もずっと練習していた。体育館の鍵を借りて深夜まで練習を積み、常に最高の体調を整えていた」という努力が実り、大学で素質が開花する。
あまり選手を厳しく縛らないガイ・ルイスHCの指導方針も合っていた。ドレクスラー (1980年入学)とラリー・ミショー(79年入学)、それにアキーム・オラジュワン(81年入学)の3人は、次から次にダンクやアリウープを披露し“ファイ・スラマ・ジャマ(ダンク友愛会)”の異名を取った。当時の大学バスケット界にはまだ古い風潮が残っていて、ヒューストン大のような派手なプレーを奨励する学校は少なかったので、その印象は強烈だった。
クライド・ドレクスラーも、ジョーダンとは切っても切れない縁がある。同じシューティングガードで、体型やプレースタイルも似ていたためジョーダンの劣化版として扱われることもあった。
しかし、ドレクスラーが他の選手たちと異なるのは、彼自身がジョーダンの運命を変える役を担っていたことである。彼がいなければ、ジョーダンはシカゴ・ブルズのユニフォームを着てはいなかったかもしれないのだから。
ドレクスラーはニューオリンズ生まれだが、育ったのはヒューストンだった。NBAでの彼の華麗なプレーぶりを目にしていた者からは信じられないことに、少年時代は動きも鈍ければジャンプ力も乏しく「ピックアップゲームではいつも最後まで選ばれない」程度の実力だった。
12歳になって通い始めたマーシャルアーツ教室がきっかけで、厳しく心身を鍛え上げる面白さに目覚め、高校ではあらゆるスポーツで活躍。ヒューストン・ロケッツの選手との親交もあって、練習に参加させてもらったこともあった。
もっとも、この時点ではまだ広く名前を知られてはおらず「奨学金の申し出は片手で足りるほどだった」(ドレクスラー)。ヒューストン大に進学したのも熱烈に勧誘されたのではなく、単に地元の学校だからとの理由だった。
■盟友オラジュワンと出会いNCAA選手権決勝に進出
それでも「みんながパーティーをしている間もずっと練習していた。体育館の鍵を借りて深夜まで練習を積み、常に最高の体調を整えていた」という努力が実り、大学で素質が開花する。
あまり選手を厳しく縛らないガイ・ルイスHCの指導方針も合っていた。ドレクスラー (1980年入学)とラリー・ミショー(79年入学)、それにアキーム・オラジュワン(81年入学)の3人は、次から次にダンクやアリウープを披露し“ファイ・スラマ・ジャマ(ダンク友愛会)”の異名を取った。当時の大学バスケット界にはまだ古い風潮が残っていて、ヒューストン大のような派手なプレーを奨励する学校は少なかったので、その印象は強烈だった。
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