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NBA

【コビー・ブライアント物語・Part1後編】晴れてレイカーズの一員に。順調に成長を遂げ、シャックとのデュオは日ごとに威力を増すも……

大井成義

2020.03.15

97年のスラムダンク・コンテストで史上最年少優勝。これがルーキーイヤーのハイライトだろう。(C)Getty Images

97年のスラムダンク・コンテストで史上最年少優勝。これがルーキーイヤーのハイライトだろう。(C)Getty Images

 ウエストGMとの〝非常に感情的なミーティング〞の末、最終的にディバッツは折れる。その結果、ドラフトから半月の時を経て、コビーは幼少の頃からの夢だった名門レイカーズの一員となった。当時のコビーの代理人は、コビーがホーネッツでプレーすることは、いかなることがあっても「あり得ない選択肢だった」と述べている。

 コビーのトレードが成立してからちょうど1週間後、もう1人のキーマンがFAでレイカーズに新加入する。7年1億2000万ドルの超大型契約を引っさげてやってきたのは、リーグを代表する大型センター、怪物シャキール・オニールだった。
 
■1年目から高い注目を浴びるが、大舞台で致命的なミスを連発

 1996-97シーズンが開幕し、プロ生活の第一歩がスタートした。シーズン初戦は、プレシーズンゲームで負った股関節のケガのため出場を見送り、翌々日の2試合目がプロデビュー戦となった。当時のNBA史上最年少出場記録を樹立したものの(18歳と72日)、出場時間はわずか6分、1リバウンド、1ブロック、フィールドゴールは1本放ってミスし無得点。結果を残すことはできなかった。

 コビーはデビュー前からアディダスと6年4800万ドルの大型契約を結び、スプライトをはじめ露出度の高いCMに出演するなど、恵まれた待遇にあった。そんなコビーをやっかむ選手や、新人のくせにやたらボールを欲しがり、アグレッシブすぎるプレーを面白くないと思う先輩も少なくなかった。

 ある時などは、コビーが派手なプレーを披露すると、ベンチのチームメイトたちが一斉にシラけた目で見ていたこともあった。シャックは公の場でコビーを“showboat(目立ちたがり屋、気取り屋)”と呼び、からかう始末。それでもコビーは自分のスタイルを変えようとせず、我が道を突き進んだ。

 年が明けた1997年1月、先発出場の最年少記録を更新(18歳と158日)。その10日後、コビーはルーキーイヤーのハイライトを迎える。オールスター・ルーキーチャレンジで、MVPこそアレン・アイバーソン(当時フィラデルフィア・セブンティシクサーズ)に譲ったものの、当時の歴代最多得点となる31得点を記録した。

 そして注目のスラムダンク・コンテストでは、史上最年少のチャンピオンとなり、その名を世界に知らしめることになる。コビーはスターの階段を一歩ずつ上り始めたのだった。
 
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