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NBA

【NBAデュオ列伝】解散、再結成、そしてまた別の道へ。そのすべての過程が、ジョーダンとピッペンを“史上最高のデュオ”たらしめた|後編

出野哲也

2020.05.15

 ブルズは再び無敵のチームになった。1996年は当時のリーグ新記録となる72勝をあげ、ファイナルではシアトル・スーパーソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)を一蹴し3年ぶりに王座を奪回。続く1997年はユタ・ジャズを破って連覇を果たす。このシリーズでは、ピッペンは足を痛めていて完調ではなかったが、攻守にわたりジョーダンを支え続けた。

 ファイナルMVPに輝いたのはジョーダンだったが、トロフィーを受け取る際、彼はピッペンに声をかけた。

「一緒に持とう。お前にはその資格があるんだから」

 記者会見では「スコッティと俺は2人で1人だ。俺1人でMVPを貰うわけにはいかない。トロフィーは俺のものにして、商品の車は彼にあげるよ」とピッペンを称賛。ピッペンはそれに応えて「マイケルは毎日車を替えているから、置き場所がないんだろう」とジョークを飛ばす。彼らの間に、確かな絆ができていることを感じさせた瞬間だった。
 
■“ラストダンス”を合言葉に、再びひとつになったブルズ

 1997-98シーズンが始まる頃、ブルズは契約問題で揺れていた。ジョーダンは前年に3000万ドルを超える高額契約を結んでいたが、その際オーナーのジェリー・ラインズドーフが「この契約を一生後悔することになるかもしれない」と発言。このことを、ジョーダンは依然として根に持っていた。

 その一方で、ピッペンも不満で爆発寸前だった。1992年に7年1800万ドルで契約していたが、その後NBAの平均年俸が急騰したため、この頃には2流選手と同程度のサラリーとなっていたのである。

 しかも経営陣が彼をトレードに出そうと動いていたことを知り、悪感情と不信感は頂点に。ピッペンは痛めていた足をわざと治療せず、開幕から欠場を続け、さらに自らトレードを希望したのだった。

 以前のジョーダンなら、このような自分勝手な行動を決して認めなかっただろう。しかし、その元凶がフロントの不誠実さにあることは理解していた。それだけでなく、もはやピッペンは単なるチームメイト以上の存在であり、実の弟のようにさえ思えるようになっていたのだ。
 
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