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NBA

「ジョーダンが“目覚めない”のは分かっていた」マジックのペニーが明かしたブルズ撃破の要因

ダンクシュート編集部

2020.05.14

95年プレーオフ準決勝でペニー擁するマジックはブルズを4勝2敗で撃破。91年以降、ジョーダンズ・ブルズにポストシーズンで唯一黒星をつけたチームとなった。(C)Getty Images

95年プレーオフ準決勝でペニー擁するマジックはブルズを4勝2敗で撃破。91年以降、ジョーダンズ・ブルズにポストシーズンで唯一黒星をつけたチームとなった。(C)Getty Images

 シカゴ・ブルズが最後に優勝した1997-98シーズンに密着して撮影したドキュメンタリー10部作『ザ・ラストダンス』が放映されており、1991~93年に続く2度目となる3連覇に改めてスポットライトが当てられている。シーズン72勝をあげた95-96シーズンから怒涛の快進撃が始まったが、遡れば1995年のカンファレンス準決勝でオーランド・マジックに敗れた悔しさがマイケル・ジョーダンの闘争心に火をつけた。当時、マジックの主力だったアンファニー“ペニー”ハーダウェイが、シリーズを振り返っている。

 ジョーダンが最初の引退を発表したのは93年10月のこと。ブルズを3連覇に導いたわずか4か月後、7年連続得点王、MVPを3度受賞し、前年のバルセロナ五輪で金メダルを獲得した絶頂期に、30歳の若さで表舞台を退いたことは世界中に衝撃を与えた。

 94年2月、ブルズのオーナーだったジェリー・ラインズドーフが所有するMLBシカゴ・ホワイトソックスと野球選手として契約。その後、開幕を2Aのバーミンガム・バロンズで迎え、127試合で打率.202、3本塁打、51打点、30盗塁(失敗18回)、11失策という記録を残した。
 
 しかし、MLB選手会が94年8月からストライキに突入し、残りのシーズンとポストシーズンがすべて中止。95年に入っても解決の糸口を見い出せず、3Aナッシュビルへの昇格が決まっていたジョーダンは野球選手の道を断念。3月18日(日本時間19日)、「I’m back」(復活だ)の名言とともに、「45番」を背負いブルズに電撃復帰を果たした。

 レギュラーシーズン17試合で平均26.9点、6.9リバウンド、5.3アシストを記録したジョーダンの活躍でブルズは終盤戦で13勝4敗と巻き返し、カンファレンス5位でプレーオフに進出。1回戦でシャーロット・ホーネッツを3勝1敗(当時は3戦先勝)で下してペニーとシャキール・オニール(シャック)擁するマジックとの準決勝に駒を進めた。

 ブルズはシリーズ初戦、残り試合時間6.5秒で1点リードしていたが、ジョーダンがニック・アンダーソンにスティールされてまさかの逆転負け。試合後、「彼は以前のジョーダンじゃなかった」とアンダーソンに言われたジョーダンは、3日後の第2戦に罰金覚悟でかつての「23番」に戻して38得点をマークし、意地の勝利に導いた。

 第3戦以降も、40→26→39→24と得点を重ねたものの、野球挑戦の間に10~15ポンド(約4.5~6.8kg)増加していた身体をバスケットボール仕様に戻せず、ブルズは2勝4敗で敗退した。
 

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