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NBA

“信念の男”ビル・ラッセルが歩んだ差別との闘争の歴史【NBA秘話・前編】

大井成義

2020.06.05

 そのロイドは2003年に、クリフトンは2014年に、そしてラッセルにとってセルティックスの先輩にあたるクーパーが、2019年9月、ついに殿堂入りを果たした。それを受けて、ラッセルは自身のボイコットを取り止めたのである。黒人としてNBAのカラーバリア(人種の壁)を破ったクーパーを差し置いて、自分が初の黒人殿堂入り選手になるわけにはいかなかった。実績からすれば誰も文句を言わなかっただろうが、彼の人生哲学がそれを許さなかったのだ。

 ラッセルは現在、2009年から名称が変更されたNBAファイナルのMVP、〝ビル・ラッセル・ファイナルMVPアウォード〞のプレゼンターを務めており、毎年ファイナル最終戦直後の優勝セレモニーで姿を拝見することができる。白髪頭に白髭、笑顔がチャーミングで、やたら甲高い声で笑う背の高い好々爺。

 数年前から足元と言葉の双方がおぼつかなくなっており、2019年の贈呈式では1人で歩くのも大変そうだった。もう歳も歳だし、余生をゆったりと過ごしているものと思っていたところに殿堂入り云々のニュースである。彼ほどの人物なら、思うところはあっても適当な時期にもらっておけば気も楽だったろうに、とも思ったが、それはあまりにも浅はかな考えだった。
 
 今回いろいろと調べてみてわかったのだが、ラッセルという男は決して自分の信念を曲げない、気骨の男なのである。それも、常軌を逸するレベルで。この殿堂入りに関する小さなエピソードは、彼の生き様を象徴しているようなもの。あの見た目の好々爺ぶりからは想像もつかない、壮絶な人生をラッセルは歩んできた。いや、今でも向かい風の中を、彼は懸命に歩いている。

■バスケットの才能が開花する一方で、激しい差別にあった大学での日々

 アメリカ最南部、ディープサウスのルイジアナ州ウエストモンローに、1934年という世界恐慌の真っ只中ラッセルは生まれた。当時南部では厳しい人種隔離政策が採られており、ルイジアナでは白人による黒人へのリンチも日常茶飯事だった。

 ラッセルも両親が日々差別に苦しむ姿を見て育った。第2次世界大戦が始まると、地域の黒人の多くが仕事と自由を求めて、西海岸のカリフォルニア州オークランドに移住した。製紙工場に勤めていた父も、家族を引き連れオークランドへ行く決意をする。ラッセルが9歳の時だった。
 

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