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NBA

“信念の男”ビル・ラッセルが歩んだ差別との闘争の歴史【NBA秘話・前編】

大井成義

2020.06.05

 だがそこに待ち構えていたのは、より厳しい貧困と、またもや差別の嵐だった。造船所に仕事を得た父だったが、終戦と同時に失業。一家はますます困窮していった。そんな矢先、母が病死。誰よりも仲の良かった母がいなくなったことで、ラッセルは人見知りで内向的な性格になっていき、図書館で1人時間を過ごすことが多くなった。

 高校入学時に177㎝だった身長は、3年時に195㎝まで伸び、高校時代に眠ったままだったバスケットボールの才能が、大学でようやく開花する。サンフランシスコ大に進学したラッセルはNCAAトーナメントで2連覇を達成し、その間の勝敗は55連勝を含む57勝1敗。1955-56シーズンは、シーズンを通して無敗のまま優勝を果たした史上初めてのチームとなった。

 一躍スターダムを駆け上がったラッセルだったが、それでも人種差別はつきまとい続けた。黒人の比率が高かったサンフランシスコ大は、それだけで嘲笑や蔑視の対象となり、試合前の練習時には観客が「グローブトロッターズ!(黒人主体の見世物的な要素が強いエキシビションチーム)」とチャントを始め、ゴールに向かって小銭を投げつけた。

 1954年のクリスマストーナメントでオクラホマシティを訪れた時は、ダウンタウンのすべてのホテルが黒人選手の宿泊を拒否。やむなく選手全員で空いていた学生寮に泊まった。そういった数々の侮辱や人種差別が、人一倍センシティブなラッセルの心に深く突き刺さり、強い抵抗心や反骨心を育んでいったことは想像に難くない。
 
 33歳の若きセルティックスHC、レッド・アワーバックは極めて先駆的な人間だった。NBAで初めて黒人選手をドラフト指名し(クーパー)、最初に黒人だけの先発ラインナップを組み、アメリカのプロスポーツ史上初となる黒人HCの起用に踏み切った(ラッセル)。1956年のNBAドラフト、セルティックスには下位の指名権しかなかったが、策士アワーバックは巧妙なトレードを企て、目玉選手だったラッセルの獲得に成功する。

 ラッセルは大学時代に続き、NBAでも驚異的な活躍を披露した。史上最高のディフェンダーであり、ブロックを芸術の域まで高め、バスケットボールIQもひときわ高かった。5度のレギュラーシーズンMVPに、オールスター選出は12回を数える。

 13シーズンのキャリアで、前人未到の8連覇を含む11度の優勝。ラスト2度の優勝は、HCを兼任してのものだった。ラッセルに率いられた1950年代後半から60年代のセルティックスは、アメリカのプロスポーツ史上最も偉大なチームと称されている。勝利という観点から見れば、彼以上に成功を収めたNBA選手はこの世に存在しない。(後編に続く)

文●大井成義

※『ダンクシュート』2020年2月号掲載原稿に加筆・修正。
 
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