■鉄人マローンのジャズ入団、そしてスーパーデュオの誕生
カール・マローンは1963年7月24日、ルイジアナ州サマーフィールドで生を享ける。5歳の時に父親が家出し、母親の手で育てられた。
兄たちとのプレーを通じて、バスケットボールの魅力を知ったのはストックトンと同様だった。ルイジアナ工科大に進んだマローンには、コンスタントに得点を重ねる様子を郵便配達人にたとえられ、“メールマン”というニックネームがつけられた。
マローンは、NBA入りする前にストックトンに会ったことを覚えている。1984年のロサンゼルス五輪代表選考会に、2人とも招待されていたのだ。
「初めてジョンを見た時は“何て冴えないヤツなんだろう”と正直思ったね。でも、この選考会に呼ばれているからにはそれなりの選手のはずだ、と思い直した。それで食事の席で自己紹介したんだ」
代表には2人とも選ばれなかった。ストックトンはプロ入りし、その1年後、1985年のドラフト13位でマローンはジャズに指名される。彼らの道程は、ここで再び交差した。
繊細な性格のマローンは、入団直後ホームシックにかかってしまう。人種差別の未だ根強い南部出身の彼には、黒人人口が10%にも満たないユタ州での生活は不安だった。だが、ストックトンがいたことで、その不安も徐々に解消されていった。
「ジョンは一度も、肌の色で人を判断したことがなかった」
コート上でも私生活でも、お互いを知れば知るほど、相性は良くなっていった。2人のプレースタイルの長所がそれぞれの欠点を補い合い、特にピック・アンド・ロールは芸術の域に達し、わかっていても防ぐことができないほどの効力を発揮。ポール・マッカートニーとスティービー・ワンダーの『エボニー・アンド・アイボリ―』は、白人のポールと黒人のスティービーをピアノの白鍵と黒鍵になぞらえ、人種の融和を訴えた大ヒット曲だが、ストックトンとマローンも同じようにパーフェクトなハーモニーを奏でたのだった。
それだけではなく、2人のプレーは実にエキサイティングだった。ベテランになってからの彼らしか知らないファンの目には、スローテンポのハーフコート・オフェンスを繰り返すだけの退屈な選手たちと映ったかもしれない。けれども、若かりし頃の2人は、ほかのどのプレーヤーにも負けないスピードでコートを疾走。その姿は、まさしく“ダイナミックデュオ”と呼ぶにふさわしかった。
カール・マローンは1963年7月24日、ルイジアナ州サマーフィールドで生を享ける。5歳の時に父親が家出し、母親の手で育てられた。
兄たちとのプレーを通じて、バスケットボールの魅力を知ったのはストックトンと同様だった。ルイジアナ工科大に進んだマローンには、コンスタントに得点を重ねる様子を郵便配達人にたとえられ、“メールマン”というニックネームがつけられた。
マローンは、NBA入りする前にストックトンに会ったことを覚えている。1984年のロサンゼルス五輪代表選考会に、2人とも招待されていたのだ。
「初めてジョンを見た時は“何て冴えないヤツなんだろう”と正直思ったね。でも、この選考会に呼ばれているからにはそれなりの選手のはずだ、と思い直した。それで食事の席で自己紹介したんだ」
代表には2人とも選ばれなかった。ストックトンはプロ入りし、その1年後、1985年のドラフト13位でマローンはジャズに指名される。彼らの道程は、ここで再び交差した。
繊細な性格のマローンは、入団直後ホームシックにかかってしまう。人種差別の未だ根強い南部出身の彼には、黒人人口が10%にも満たないユタ州での生活は不安だった。だが、ストックトンがいたことで、その不安も徐々に解消されていった。
「ジョンは一度も、肌の色で人を判断したことがなかった」
コート上でも私生活でも、お互いを知れば知るほど、相性は良くなっていった。2人のプレースタイルの長所がそれぞれの欠点を補い合い、特にピック・アンド・ロールは芸術の域に達し、わかっていても防ぐことができないほどの効力を発揮。ポール・マッカートニーとスティービー・ワンダーの『エボニー・アンド・アイボリ―』は、白人のポールと黒人のスティービーをピアノの白鍵と黒鍵になぞらえ、人種の融和を訴えた大ヒット曲だが、ストックトンとマローンも同じようにパーフェクトなハーモニーを奏でたのだった。
それだけではなく、2人のプレーは実にエキサイティングだった。ベテランになってからの彼らしか知らないファンの目には、スローテンポのハーフコート・オフェンスを繰り返すだけの退屈な選手たちと映ったかもしれない。けれども、若かりし頃の2人は、ほかのどのプレーヤーにも負けないスピードでコートを疾走。その姿は、まさしく“ダイナミックデュオ”と呼ぶにふさわしかった。