■晩年は各球団を転々とし脇役としてエースを補佐
だが、敵は身近なところにいた。コビーとの確執が、年々悪化の一途を辿っていったのである。コビーにとってオニールは目の上の瘤であり、オニールにとってもコビーは目障りで仕方のない存在だった。
それでも勝利が辛うじて2人を結びつけていたのだが、04年のファイナルでデトロイト・ピストンズに敗れると、レイカーズの主の座を巡ってパワーゲームが開幕した。
勝利を収めたのは、オーナーを味方につけたコビーのほうだった。形勢不利を悟ったオニールは、自ら申し出てマイアミ・ヒートへとトレードされた。
「物事がうまくいかないときは、いつでも俺がスケープゴート(身代わり)だ。俺は度量が広いからそれを受け入れたがな」と嘯いていたが、内心で激しくレイカーズとコビーに恨みを抱いていたのは明らかだった。
06年、ヒートの一員として4つ目のリングを手にすることで、その鬱憤は存分に晴らすことができた。
「あと最低2つはリングが取れるだろう」との目論みに反し、リングのコレクションはこれで打ち止めになった。
晩年はフェニックス・サンズ、クリーブランド・キャバリアーズ、ボストン・セルティックスに“優勝請負人”として迎えられながら役目を果たせず、10-11シーズンを最後に引退した。
「彼は試合を支配しただけでなく、人間性の大きさでコート以外でも人々を支配した」。マジック・ジョンソンはこのようなメッセージを送り、オニールをねぎらった。
結局、オニールという男は今でも“大きな子ども”なのだ。好奇心旺盛でジョーク好き、常に自分が一番でなければ気のすまない性格。彼のそうした面を愛する人もいれば、思慮の浅い行動や言動に眉をひそめる者もいた。
それでもこれだけは確実に言える。2000年代で最初の10年間、NBAの主人公はコビーでもティム・ダンカンでも、レブロンでもなく“ディーゼル”であったのだ。
文●出野哲也
※『ダンクシュート』2012年11月号掲載原稿に加筆・修正。
だが、敵は身近なところにいた。コビーとの確執が、年々悪化の一途を辿っていったのである。コビーにとってオニールは目の上の瘤であり、オニールにとってもコビーは目障りで仕方のない存在だった。
それでも勝利が辛うじて2人を結びつけていたのだが、04年のファイナルでデトロイト・ピストンズに敗れると、レイカーズの主の座を巡ってパワーゲームが開幕した。
勝利を収めたのは、オーナーを味方につけたコビーのほうだった。形勢不利を悟ったオニールは、自ら申し出てマイアミ・ヒートへとトレードされた。
「物事がうまくいかないときは、いつでも俺がスケープゴート(身代わり)だ。俺は度量が広いからそれを受け入れたがな」と嘯いていたが、内心で激しくレイカーズとコビーに恨みを抱いていたのは明らかだった。
06年、ヒートの一員として4つ目のリングを手にすることで、その鬱憤は存分に晴らすことができた。
「あと最低2つはリングが取れるだろう」との目論みに反し、リングのコレクションはこれで打ち止めになった。
晩年はフェニックス・サンズ、クリーブランド・キャバリアーズ、ボストン・セルティックスに“優勝請負人”として迎えられながら役目を果たせず、10-11シーズンを最後に引退した。
「彼は試合を支配しただけでなく、人間性の大きさでコート以外でも人々を支配した」。マジック・ジョンソンはこのようなメッセージを送り、オニールをねぎらった。
結局、オニールという男は今でも“大きな子ども”なのだ。好奇心旺盛でジョーク好き、常に自分が一番でなければ気のすまない性格。彼のそうした面を愛する人もいれば、思慮の浅い行動や言動に眉をひそめる者もいた。
それでもこれだけは確実に言える。2000年代で最初の10年間、NBAの主人公はコビーでもティム・ダンカンでも、レブロンでもなく“ディーゼル”であったのだ。
文●出野哲也
※『ダンクシュート』2012年11月号掲載原稿に加筆・修正。