「15歳になるまでは、クラスメイトよりは大きかったけれど、バスケットボール選手のなかに入ると“普通サイズ”だった。リトアニア人は男も女も背が高いからね。それでも13歳になってから急激に背が伸び始めて、センターでプレーするようになったんだ」
エリートを集中的に養成する旧ソ連の体制下で、イルガスカスはスポーツの専門学校に通っていた。国中から運動神経の良い子どもばかりが集められたなかでも、彼の才能は飛び抜けていたが、挫折しかけたこともあったそうだ。
「当時の僕はとても痩せていたから、試合がフィジカルになって、相手に押されたり突かれたりすると、それが苦痛になってきたんだ。高校生にもなるとほかのことにも興味が湧いてくるし、友人と遊ぶ時間も欲しかった。毎日3~4時間も体育館で過ごしたいヤツなんていないからね」
バスケットボールを諦めたイルガスカス少年は代わりにサッカーを始めるのだが、1年半もすると飽きてしまう。逆にバスケットボールを恋しく思う気持ちが再び芽生えた頃、都合良く身長も伸び始めたため、彼は自らの才能に最も見合ったスポーツへと戻ったのだった。
ちょうどその頃、リトアニアの国自体が大きな変化に見舞われていた。1991年1月13日、独立への機運が高まる首都ビリニュス市をソ連軍が攻撃。ニュース番組を放送中のテレビ局が占拠される一部始終を、イルガスカスは家族とともに目の当たりにし、夜には友人たちとともに2万人が集まった独立派の集会を見に行った。
「その時、『ロシア軍がやって来るぞ!』という叫び声が聞こえた。結局それはデマだったんだけど、あれほど恐ろしい思いをしたことはなかったよ」
イルガスカス自身は難を逃れたものの、13名の市民が犠牲になったこの事件は“血の日曜日”として世界中に報道され、強い非難を浴びたソ連は9月にリトアニアを含むバルト三国の独立を承認した。
1年後のバルセロナ五輪には、晴れて独立国家となったリトアニアのバスケットボール代表チームが参加。この“もうひとつのドリームチーム”には、英雄サボニスも見慣れたソ連の赤ではなく、緑を基調としたリトアニアのユニフォームを纏って参戦した。
エリートを集中的に養成する旧ソ連の体制下で、イルガスカスはスポーツの専門学校に通っていた。国中から運動神経の良い子どもばかりが集められたなかでも、彼の才能は飛び抜けていたが、挫折しかけたこともあったそうだ。
「当時の僕はとても痩せていたから、試合がフィジカルになって、相手に押されたり突かれたりすると、それが苦痛になってきたんだ。高校生にもなるとほかのことにも興味が湧いてくるし、友人と遊ぶ時間も欲しかった。毎日3~4時間も体育館で過ごしたいヤツなんていないからね」
バスケットボールを諦めたイルガスカス少年は代わりにサッカーを始めるのだが、1年半もすると飽きてしまう。逆にバスケットボールを恋しく思う気持ちが再び芽生えた頃、都合良く身長も伸び始めたため、彼は自らの才能に最も見合ったスポーツへと戻ったのだった。
ちょうどその頃、リトアニアの国自体が大きな変化に見舞われていた。1991年1月13日、独立への機運が高まる首都ビリニュス市をソ連軍が攻撃。ニュース番組を放送中のテレビ局が占拠される一部始終を、イルガスカスは家族とともに目の当たりにし、夜には友人たちとともに2万人が集まった独立派の集会を見に行った。
「その時、『ロシア軍がやって来るぞ!』という叫び声が聞こえた。結局それはデマだったんだけど、あれほど恐ろしい思いをしたことはなかったよ」
イルガスカス自身は難を逃れたものの、13名の市民が犠牲になったこの事件は“血の日曜日”として世界中に報道され、強い非難を浴びたソ連は9月にリトアニアを含むバルト三国の独立を承認した。
1年後のバルセロナ五輪には、晴れて独立国家となったリトアニアのバスケットボール代表チームが参加。この“もうひとつのドリームチーム”には、英雄サボニスも見慣れたソ連の赤ではなく、緑を基調としたリトアニアのユニフォームを纏って参戦した。
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