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NBA

「ケビンがいなけりゃ…」悪童バークレーとグッドガイKJ、真逆な2人の確かな絆【NBAデュオ列伝|前編】<DUNKSHOOT>

出野哲也

2021.06.14

 プロ入り当初は狭かったシュートレンジも徐々に広げていき、オフェンス力も向上した。1987-88シーズンには自己最高の平均28.3点をあげ、リーグ4位にランクイン。1980年代の後半から1990年代前半にかけて、バークレーはNBA全体でも、ジョーダンに次いでおそらくナンバー2の選手だった。コンピューターが算出する最優秀選手に贈られるIBMアウォードを、1986年から3シーズン連続で受賞しているのがその証拠である。

 その一方で、トラブルメーカーとの悪評もついてまわった。「真実を喋ることは、自分の務めだと思っている」という一本気な性格が、一部のマスコミによって捻じ曲げられて伝わった部分もあった。だが、実際にテクニカルファウルの常習犯であり、観客の野次に汚い言葉で応酬して罰金を取られることも珍しくなかった。

 チームとしての成功には手が届かなかったことも、バークレーを苛立たせる原因となる。シクサーズは、バークレーの入団した頃はジュリアス・アービングやモーゼス・マローンといったスーパースターを擁する強豪だったが、彼らの力が衰えるにつれ、ボストン・セルティックスやデトロイト・ピストンズ、そしてブルズの後塵を拝するようになっていった。

「チャンピオンリングがなくたって、俺が最高の選手でないことにはならない」

 そう強がっていたバークレーだが、本心では死ぬほど勝利に飢えていた。
 
 その頃、ウエスタン・カンファレンスで文字通り日の出の勢いだったのがサンズだ。1987―88シーズンにはわずか28勝だったが、その翌年に1人の選手が急成長し、一挙に2倍近い55勝を記録。以後4年連続で50勝以上と、エリートチームにのし上がってきたのだった。

 言うまでもなく、その選手とはKJであった。1987年、クリーブランド・キャバリアーズにドラフト7位で入団したKJだが、キャブズにはマーク・プライスという優秀なポイントガードがいたため、半年後にはサンズへ移籍。1988―89シーズンには前年の9.2点、5.5アシストから、20.4点、12.2アシストと大きく成績を伸ばし、MIPを受賞する。同年から3年連続で平均20点、10アシストを記録したが、これを達成したのはオスカー・ロバートソン(元シンシナティ・ロイヤルズ/現サクラメント・キングスほか)、アイザイア・トーマス(元ピストンズ)に続き、史上3人目という歴史的な快挙だった。
 
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