グラント・ヒルもバードやピッペンと同じオールラウンダーだったが、もともとはマジック・ジョンソンに憧れて高校までは32番だった。しかしデューク大に進むと、先輩のクリスチャン・レイトナーが32番をつけていたため、マジックの大学時代の番号である33に変更した。
2008年にフェニックス・サンズへの移籍が決まった際は、アルバン・アダムズの番号として永久欠番になっていたので、父カルビンがNFLのスター選手時代につけていた35番に変えようかと考えた。だがアダムスが「33は私個人ではなく、サンズというチームの番号」と、ヒルが使用することを承諾。結果、引退するまでNBAでは33以外の背番号を使わなかった。
そのアダムズも、センターでありながらパスが上手でアシストの多かった器用な選手。彼の前にサンズの33番だったチャーリー・スコットも、ABA時代と合わせて5度のオールスターに出場した好選手だった。
スコットと同じくABA出身のデビッド・トンプソンは、ジョーダンが少年時代に憧れた70年代のスーパースターの一人。デンバー・ナゲッツの永久欠番となったのは引退から8年後の92年で、その間に同球団ではカルビン・ナットも33番で活躍した。
シャキール・オニールは32番(オーランド・マジック時代)や34番(レイカーズ時代)の印象が強いが、クリーブランド・キャバリアーズに在籍した1年だけ背番号33だったことがある。ユーイングのファンだった彼は高校・大学を通じて33番。NBAでも33番を希望し、マジックもドラフト指名時に彼の名前が入ったユニフォームをプレゼントしたのだが、当時マジックの33番だったテリー・キャトリッジが譲ることを拒み、32番になった。
コビー・ブライアントも高校では33番で、これはジャバーやバードとは関係なく、父ジョーの高校時代の番号に因んだもの。プロでもこの数字にするつもりだったが、レイカーズでは欠番だったので実現しなかった。アマチュアで33番だったのちのスター選手には、マーケット大時代のジミー・バトラー(現在マイアミ・ヒートで背番号22)らもいる。
文●出野哲也
※『ダンクシュート』2013年6月号掲載原稿に加筆・修正
2008年にフェニックス・サンズへの移籍が決まった際は、アルバン・アダムズの番号として永久欠番になっていたので、父カルビンがNFLのスター選手時代につけていた35番に変えようかと考えた。だがアダムスが「33は私個人ではなく、サンズというチームの番号」と、ヒルが使用することを承諾。結果、引退するまでNBAでは33以外の背番号を使わなかった。
そのアダムズも、センターでありながらパスが上手でアシストの多かった器用な選手。彼の前にサンズの33番だったチャーリー・スコットも、ABA時代と合わせて5度のオールスターに出場した好選手だった。
スコットと同じくABA出身のデビッド・トンプソンは、ジョーダンが少年時代に憧れた70年代のスーパースターの一人。デンバー・ナゲッツの永久欠番となったのは引退から8年後の92年で、その間に同球団ではカルビン・ナットも33番で活躍した。
シャキール・オニールは32番(オーランド・マジック時代)や34番(レイカーズ時代)の印象が強いが、クリーブランド・キャバリアーズに在籍した1年だけ背番号33だったことがある。ユーイングのファンだった彼は高校・大学を通じて33番。NBAでも33番を希望し、マジックもドラフト指名時に彼の名前が入ったユニフォームをプレゼントしたのだが、当時マジックの33番だったテリー・キャトリッジが譲ることを拒み、32番になった。
コビー・ブライアントも高校では33番で、これはジャバーやバードとは関係なく、父ジョーの高校時代の番号に因んだもの。プロでもこの数字にするつもりだったが、レイカーズでは欠番だったので実現しなかった。アマチュアで33番だったのちのスター選手には、マーケット大時代のジミー・バトラー(現在マイアミ・ヒートで背番号22)らもいる。
文●出野哲也
※『ダンクシュート』2013年6月号掲載原稿に加筆・修正