マジック創世期の主力で、同じくシュート力が売りだったニック・アンダーソンは95年のファイナル第1戦で4本続けてフリースローを外し、逆転負けの戦犯となってしまう。25番をつけていたのは将来を嘱望されながらも17歳で殺害された友人のベン・ウィルソンを偲んでのもの。
ウィルソンが通っていたシカゴのシメオン高校では、それ以降最高の選手に25番を与えるのが習慣となり(現在では欠番)、デリック・ローズも同校在学中は25番。ブルズ時代に1番で活躍したローズは、その後いくつかの球団で馴染みの25番を使用した(現在はニューヨーク・ニックスで4番)。
ビリー・ナイトは77年にリーグ2位の平均26.6点。ポール・プレッシーは80年代のミルウォーキー・バックスでポイントフォワードとして多彩なスキルを披露、息子のフィルもサンズ時代に25番をつけた。プレッシーと同時代にデトロイト・ピストンズで活躍したジョン・ロングは、グラント・ロング、テリー・ミルズという2人のNBA選手の叔父としても知られる。
ウィルソンが通っていたシカゴのシメオン高校では、それ以降最高の選手に25番を与えるのが習慣となり(現在では欠番)、デリック・ローズも同校在学中は25番。ブルズ時代に1番で活躍したローズは、その後いくつかの球団で馴染みの25番を使用した(現在はニューヨーク・ニックスで4番)。
ビリー・ナイトは77年にリーグ2位の平均26.6点。ポール・プレッシーは80年代のミルウォーキー・バックスでポイントフォワードとして多彩なスキルを披露、息子のフィルもサンズ時代に25番をつけた。プレッシーと同時代にデトロイト・ピストンズで活躍したジョン・ロングは、グラント・ロング、テリー・ミルズという2人のNBA選手の叔父としても知られる。
ジェローム・カーシーは全盛期を過ごしたポートランド・ブレイザーズでこの番号。94年にレイカーズに入団した当初25番だったエディ・ジョーンズは、96年に同番号がグッドリッチの欠番になったため、憧れのジュリアス・アービングと同じ6番に変えた。
ガードやフォワードに有力な人材が揃う一方で、ビッグマンの25番はそれほど多くない。ビル・カートライトはニックス時代にこの番号で、ブルズに移籍後24番に変え、91~93年の3連覇に貢献した。エリック・ダンピアーは16年のキャリアのうち、1年を除いてすべて25番。シャーロット・ホーネッツGMのミッチ・カプチャックも、選手時代の大半は25番だったが、ケガが多く31歳の若さで引退を余儀なくされた。
現役で25番のビッグマンにはヤコブ・パートル(スパーズ)、クリス・ブーシェ(トロント・ラプターズ)らがいる。
文●出野哲也
※『ダンクシュート』2015年7月号掲載原稿に加筆・修正
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