【スモールフォワード】
バーナード・キング
1956年12月4日生。201cm・93kg
キャリアスタッツ:874試合、平均22.5点、5.8リバウンド、3.3アシスト
70~80年代を代表するスコアラーの1人だが、そのキャリアは何度も中断を余儀なくされた。1年目から平均24.2点をマークしながら、3年目はアルコールと麻薬、さらには性的暴行などの問題行動により出場停止処分を科される。
それでもニューヨーク・ニックス在籍時の84-85シーズンには、1試合60点を記録するなど絶好調だったが、3月に右ヒザ前十字靭帯を断裂。平均32.9点で得点王には輝いたものの、翌年は全休を余儀なくされた。
「医者からは『これは君が歩けるようになるための手術だ。プレーできるようになるなどと思ってはいけない』と言われた」そうだが、不屈の闘志でカムバックする。87年4月に復帰し、ワシントン・ブレッツ(現ウィザーズ)移籍後の90-91シーズンはリーグ3位の平均28.4点。故障前の身体能力は失われても、点取り屋の本能まではなくしていなかった。
だが翌シーズンに再びヒザを壊して全休。翌年2度目のカムバックを試みたが32試合に出ただけで引退した。
現ロサンゼルス・クリッパーズのポール・ジョージも、2014年8月のアメリカ代表合宿中に右足開放骨折の重傷を負ったが、翌年4月に復帰し、再びスターの地位に返り咲いている。
【パワーフォワード】
マジック・ジョンソン
1959年8月14日生。206cm・98kg
キャリアスタッツ:906試合、平均19.5点、7.2リバウンド、11.2アシスト
本欄に登場する中で、最も長いブランクがあった選手。「PGの間違いでは?」と思われる人もいるかもしれないが、カムバック後はPFとしてプレーした。
80年代に5度の優勝と3度のMVPに輝いたロサンゼルス・レイカーズのスーパースターで、HIVウイルスへの感染が判明して91-92シーズンを前に引退。まだ31歳で、翌年1試合だけ復活したオールスターではMVPを受賞、バルセロナ五輪でもドリームチームを牽引するなど力量は一切衰えていなかった。
93-94シーズンの終盤にはヘッドコーチとしてレイカーズに復帰、16試合だけ采配を振ったが、選手として戻ってきたのは96年1月。エイズへの偏見が薄らいだのを受けての決断であり、ジョーダンの復活劇にも刺激を受けていたのは間違いない。記者会見での第一声もジョーダンを真似た「I’m back」だった。
復帰後は32試合で平均14.6点、5.7リバウンド、6.9アシスト。2月14日のアトランタ・ホークス戦ではトリプルダブルを達成、4年もの空白期間を考えれば上々の出来だったが、カムバックは1年だけで終わった。
バーナード・キング
1956年12月4日生。201cm・93kg
キャリアスタッツ:874試合、平均22.5点、5.8リバウンド、3.3アシスト
70~80年代を代表するスコアラーの1人だが、そのキャリアは何度も中断を余儀なくされた。1年目から平均24.2点をマークしながら、3年目はアルコールと麻薬、さらには性的暴行などの問題行動により出場停止処分を科される。
それでもニューヨーク・ニックス在籍時の84-85シーズンには、1試合60点を記録するなど絶好調だったが、3月に右ヒザ前十字靭帯を断裂。平均32.9点で得点王には輝いたものの、翌年は全休を余儀なくされた。
「医者からは『これは君が歩けるようになるための手術だ。プレーできるようになるなどと思ってはいけない』と言われた」そうだが、不屈の闘志でカムバックする。87年4月に復帰し、ワシントン・ブレッツ(現ウィザーズ)移籍後の90-91シーズンはリーグ3位の平均28.4点。故障前の身体能力は失われても、点取り屋の本能まではなくしていなかった。
だが翌シーズンに再びヒザを壊して全休。翌年2度目のカムバックを試みたが32試合に出ただけで引退した。
現ロサンゼルス・クリッパーズのポール・ジョージも、2014年8月のアメリカ代表合宿中に右足開放骨折の重傷を負ったが、翌年4月に復帰し、再びスターの地位に返り咲いている。
【パワーフォワード】
マジック・ジョンソン
1959年8月14日生。206cm・98kg
キャリアスタッツ:906試合、平均19.5点、7.2リバウンド、11.2アシスト
本欄に登場する中で、最も長いブランクがあった選手。「PGの間違いでは?」と思われる人もいるかもしれないが、カムバック後はPFとしてプレーした。
80年代に5度の優勝と3度のMVPに輝いたロサンゼルス・レイカーズのスーパースターで、HIVウイルスへの感染が判明して91-92シーズンを前に引退。まだ31歳で、翌年1試合だけ復活したオールスターではMVPを受賞、バルセロナ五輪でもドリームチームを牽引するなど力量は一切衰えていなかった。
93-94シーズンの終盤にはヘッドコーチとしてレイカーズに復帰、16試合だけ采配を振ったが、選手として戻ってきたのは96年1月。エイズへの偏見が薄らいだのを受けての決断であり、ジョーダンの復活劇にも刺激を受けていたのは間違いない。記者会見での第一声もジョーダンを真似た「I’m back」だった。
復帰後は32試合で平均14.6点、5.7リバウンド、6.9アシスト。2月14日のアトランタ・ホークス戦ではトリプルダブルを達成、4年もの空白期間を考えれば上々の出来だったが、カムバックは1年だけで終わった。
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