しかしながら、大会開幕直後にアメリカ代表の王者としてのプライドは無残にも打ち砕かれる。現役NBA選手は2人しかいないプエルトリコに、初戦から敗北を喫したのだ。当時ジャズの先発PGだったカルロス・アローヨに24得点を奪われ、73-92と19点差をつけられる歴史的惨敗。“ドリームチームⅣ”はこの日から“ナイトメア(悪夢)チーム”と嘲笑を浴びるようになった。
続くギリシャ戦も勝ちはしたが、ゾーンディフェンスの攻略に苦戦し6点差の辛勝。さらに4試合目のリトアニア戦では痛恨の逆転負けを喫してしまう。アメリカが1大会で2敗したのは史上初で、グループ4位とギリギリで決勝トーナメントへ進むことになった。
オールドスタイルのブラウンHCとマーブリーが大会期間中絶えず反目し合うなど、チームを取り巻くムードも最悪。「アメリカ国内でさえ、俺たちが負ければいいというような空気があった」とドゥエイン・ウェイド(当時ヒート)は嘆いていた。
それでも、決勝トーナメント初戦の準々決勝はマーブリーが31得点と奮闘し、予選ラウンドで全勝したスペインを102-94で撃破する。迎えた準決勝の相手はアルゼンチン。02年の世界選手権ではアメリカを破り、準優勝に輝いている難敵ではあったが、グループリーグではスペインとイタリアに敗れて3位通過。また、この時点でNBAに所属していたのはマヌ・ジノビリ(当時スパーズ)1人だけだった。
だが、アルゼンチンの主力メンバーはユース時代から何年も一緒にプレーし、お互いを知り尽くした“黄金世代”と呼ばれる堅固なユニットであった。「アメリカに『勝つチャンスがある』だけじゃなく『勝てる』とわかっていた」とルイス・スコラ(元ロケッツほか)が語った通り、流れるようなパスワークと確実なシュートでNBAスターたちを翻弄。要所でアメリカの反撃を抑えるプレーを見せたジノビリがゲームハイの29得点、アンドレス・ノシオニ(元ブルズほか)ら5人が2桁得点をあげ、89-81で快勝した。
「判定がおかしすぎた。ティム(ダンカン)が蹴られたり、踏みつけられたりしても笛が吹かれなかった」
アシスタントコーチのグレッグ・ポポビッチ(当時スパーズHC)は憤ったが、アルゼンチンの強靭なチームワークと確かな戦術が、優れた技量はあってもまとまりを欠くスター軍団を凌いだ結果であった。
続くギリシャ戦も勝ちはしたが、ゾーンディフェンスの攻略に苦戦し6点差の辛勝。さらに4試合目のリトアニア戦では痛恨の逆転負けを喫してしまう。アメリカが1大会で2敗したのは史上初で、グループ4位とギリギリで決勝トーナメントへ進むことになった。
オールドスタイルのブラウンHCとマーブリーが大会期間中絶えず反目し合うなど、チームを取り巻くムードも最悪。「アメリカ国内でさえ、俺たちが負ければいいというような空気があった」とドゥエイン・ウェイド(当時ヒート)は嘆いていた。
それでも、決勝トーナメント初戦の準々決勝はマーブリーが31得点と奮闘し、予選ラウンドで全勝したスペインを102-94で撃破する。迎えた準決勝の相手はアルゼンチン。02年の世界選手権ではアメリカを破り、準優勝に輝いている難敵ではあったが、グループリーグではスペインとイタリアに敗れて3位通過。また、この時点でNBAに所属していたのはマヌ・ジノビリ(当時スパーズ)1人だけだった。
だが、アルゼンチンの主力メンバーはユース時代から何年も一緒にプレーし、お互いを知り尽くした“黄金世代”と呼ばれる堅固なユニットであった。「アメリカに『勝つチャンスがある』だけじゃなく『勝てる』とわかっていた」とルイス・スコラ(元ロケッツほか)が語った通り、流れるようなパスワークと確実なシュートでNBAスターたちを翻弄。要所でアメリカの反撃を抑えるプレーを見せたジノビリがゲームハイの29得点、アンドレス・ノシオニ(元ブルズほか)ら5人が2桁得点をあげ、89-81で快勝した。
「判定がおかしすぎた。ティム(ダンカン)が蹴られたり、踏みつけられたりしても笛が吹かれなかった」
アシスタントコーチのグレッグ・ポポビッチ(当時スパーズHC)は憤ったが、アルゼンチンの強靭なチームワークと確かな戦術が、優れた技量はあってもまとまりを欠くスター軍団を凌いだ結果であった。