ところが、交換要員としてパワーフォワードのオーティス・ソープを放出したロケッツは、フロントラインが弱体化しトレード前より成績を落としてしまう。プレーオフ進出は果たしたものの、第6シードとあって連覇の可能性は限りなく低いと見られていた。
しかし、いざプレーオフに突入すると、1回戦ではユタ・ジャズに1勝2敗から2連勝、フェニックス・サンズにも1勝3敗から3連勝と土壇場で底力を発揮。カンファレンス決勝のサンアントニオ・スパーズ戦では、オラジュワンがこの年MVPのデイビッド・ロビンソンを翻弄し、ついにファイナルまで勝ち上がった。
対戦相手は若きシャキール・オニール率いるオーランド・マジックだったが、主力のほとんどが若手で大舞台の経験がなかったマジックが自滅。4連勝したロケッツが奇跡の2連覇を達成した。
ファイナルMVPを受賞したのはオラジュワンでも、平均21.5点、9.5リバウンド、6.8 アシストと大奮闘したドレクスラーがいたからこその栄冠でもあった。「ドレクス、この勝利は君のためのものだ」。オラジュワンから祝福の言葉をかけられ、ドレクスラーは3度目の挑戦でついに味わえた勝利の美酒に、心ゆくまで酔った。
その後3年間現役を続け、98年限りで引退。母校ヒューストン大にヘッドコーチとして招かれたが、2年間で退任した。以後は、オールスターゲームのスラムダンク・コンテストに審査員として顔を見せたこともあったが、NBAとは基本的に距離を置いて暮らしている。
史上最高の選手であるジョーダンと同時代に生まれ、常に比較の対象とされたドレクスラーは不運だったという人もいるだろう。
それでも彼はNBA史上最高の50人/75人に選ばれ、オリンピックの金メダルを手にしただけでなく、故郷のチームで優勝した。この3つの栄誉をすべて手にしたのは彼以外に誰もいない(クリーブランド近郊のアクロンで生まれたレブロン・ジェームズを含めても2人だけ)。そう考えるなら、実はドレクスラーほど幸運な選手もいなかったのかもしれない。
文●出野哲也
※『ダンクシュート』2011年5月号原稿に加筆・修正
「私たちは真のチームだった」殿堂入り選手のドレクスラーがライバルのジョーダンに"反論"?
ドクターJ、ドミニク、ジョーダン、カーター……多くのスターが伝説を残したスラムダンク・コンテストの歴史
ロケッツを連覇に導いたオラジュワンが味わった挫折とキャリアのターニングポイント
しかし、いざプレーオフに突入すると、1回戦ではユタ・ジャズに1勝2敗から2連勝、フェニックス・サンズにも1勝3敗から3連勝と土壇場で底力を発揮。カンファレンス決勝のサンアントニオ・スパーズ戦では、オラジュワンがこの年MVPのデイビッド・ロビンソンを翻弄し、ついにファイナルまで勝ち上がった。
対戦相手は若きシャキール・オニール率いるオーランド・マジックだったが、主力のほとんどが若手で大舞台の経験がなかったマジックが自滅。4連勝したロケッツが奇跡の2連覇を達成した。
ファイナルMVPを受賞したのはオラジュワンでも、平均21.5点、9.5リバウンド、6.8 アシストと大奮闘したドレクスラーがいたからこその栄冠でもあった。「ドレクス、この勝利は君のためのものだ」。オラジュワンから祝福の言葉をかけられ、ドレクスラーは3度目の挑戦でついに味わえた勝利の美酒に、心ゆくまで酔った。
その後3年間現役を続け、98年限りで引退。母校ヒューストン大にヘッドコーチとして招かれたが、2年間で退任した。以後は、オールスターゲームのスラムダンク・コンテストに審査員として顔を見せたこともあったが、NBAとは基本的に距離を置いて暮らしている。
史上最高の選手であるジョーダンと同時代に生まれ、常に比較の対象とされたドレクスラーは不運だったという人もいるだろう。
それでも彼はNBA史上最高の50人/75人に選ばれ、オリンピックの金メダルを手にしただけでなく、故郷のチームで優勝した。この3つの栄誉をすべて手にしたのは彼以外に誰もいない(クリーブランド近郊のアクロンで生まれたレブロン・ジェームズを含めても2人だけ)。そう考えるなら、実はドレクスラーほど幸運な選手もいなかったのかもしれない。
文●出野哲也
※『ダンクシュート』2011年5月号原稿に加筆・修正
「私たちは真のチームだった」殿堂入り選手のドレクスラーがライバルのジョーダンに"反論"?
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