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NBA

怒りをパワーに変え、スターダムにのし上がった気高き鳥人ドレクスラー【レジェンド列伝・後編】<DUNKSHOOT>

出野哲也

2023.10.05

 ところが、交換要員としてパワーフォワードのオーティス・ソープを放出したロケッツは、フロントラインが弱体化しトレード前より成績を落としてしまう。プレーオフ進出は果たしたものの、第6シードとあって連覇の可能性は限りなく低いと見られていた。

 しかし、いざプレーオフに突入すると、1回戦ではユタ・ジャズに1勝2敗から2連勝、フェニックス・サンズにも1勝3敗から3連勝と土壇場で底力を発揮。カンファレンス決勝のサンアントニオ・スパーズ戦では、オラジュワンがこの年MVPのデイビッド・ロビンソンを翻弄し、ついにファイナルまで勝ち上がった。

 対戦相手は若きシャキール・オニール率いるオーランド・マジックだったが、主力のほとんどが若手で大舞台の経験がなかったマジックが自滅。4連勝したロケッツが奇跡の2連覇を達成した。

 ファイナルMVPを受賞したのはオラジュワンでも、平均21.5点、9.5リバウンド、6.8 アシストと大奮闘したドレクスラーがいたからこその栄冠でもあった。「ドレクス、この勝利は君のためのものだ」。オラジュワンから祝福の言葉をかけられ、ドレクスラーは3度目の挑戦でついに味わえた勝利の美酒に、心ゆくまで酔った。 
 
 その後3年間現役を続け、98年限りで引退。母校ヒューストン大にヘッドコーチとして招かれたが、2年間で退任した。以後は、オールスターゲームのスラムダンク・コンテストに審査員として顔を見せたこともあったが、NBAとは基本的に距離を置いて暮らしている。

 史上最高の選手であるジョーダンと同時代に生まれ、常に比較の対象とされたドレクスラーは不運だったという人もいるだろう。

 それでも彼はNBA史上最高の50人/75人に選ばれ、オリンピックの金メダルを手にしただけでなく、故郷のチームで優勝した。この3つの栄誉をすべて手にしたのは彼以外に誰もいない(クリーブランド近郊のアクロンで生まれたレブロン・ジェームズを含めても2人だけ)。そう考えるなら、実はドレクスラーほど幸運な選手もいなかったのかもしれない。

文●出野哲也
※『ダンクシュート』2011年5月号原稿に加筆・修正

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