それでもペニーはすぐに頭角を現した。ポイントガードとしては身体が大きく、中に切り込んでいっても、外から打っても自在に得点できるペニーをディフェンスするのは難しかった。プレーメーキングやディフェンスにも冴えを見せ、同じ長身PGだったマジック・ジョンソンからも「自分で鏡を見ているようだ」と絶賛された。
1年目から16点、6.6アシストを記録し、2.32スティールはリーグ6位。新人王投票では惜しくも次点だったが(1位はウェバー)、オールルーキー1stチームに選出され、オールスターの第1回ルーキー・チャレンジ(当時の名称はルーキーゲーム)でもMVPを受賞した。
頼もしい相棒の出現に、シャックは目を細めた。
「どんなセンターだってペニーと一緒にプレーしたいはずさ。俺たちきっと優勝できる、それも何回もな」
2人がコンビを組んで1年目の93-94シーズン、マジックは球団創設以来初のプレーオフ進出を果たした。続く94-95シーズンには、91~93年にシカゴ・ブルズで3連覇を経験したホーレス・グラントが加わり、開幕から勝ち進む。シャックが29.3点で初の得点王に輝けば、ペニーも20.9点、7.2アシストとさらに数字を伸ばし、オールスターにも出場した。
2人のコンビプレーは冴えわたり、ペニーのパスを受けてのシャックの豪快なアウリープは、オーランド・アリーナの名物となった。「シャックがどう動くかはすべて頭に入っている。いつ、どうやってパスを繰り出せばいいか、全部わかってるんだ。僕たちに言葉なんて必要ないさ」(ペニー)
シャックとペニーは、レイカーズの黄金時代を築いたカリーム・アブドゥル・ジャバ―とマジック・ジョンソン以来、最高のセンターとポイントガードの組み合わせだった。
1994-95シーズン、マジックはイースタン・カンファレンス最多の57勝を記録。プレーオフではマイケル・ジョーダンが復帰したブルズ、そしてインディアナ・ペイサーズを激戦の末に下し、NBAファイナルに進出した。アキーム・オラジュワン率いるヒューストン・ロケッツ相手に1勝もできず優勝は逃したが、シャックとペニーがいれば、今後何年にもわたって優勝戦線に顔を出すのは間違いないと思われた。
文●出野哲也
※『ダンクシュート』2005年7月号掲載原稿に加筆・修正。
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1年目から16点、6.6アシストを記録し、2.32スティールはリーグ6位。新人王投票では惜しくも次点だったが(1位はウェバー)、オールルーキー1stチームに選出され、オールスターの第1回ルーキー・チャレンジ(当時の名称はルーキーゲーム)でもMVPを受賞した。
頼もしい相棒の出現に、シャックは目を細めた。
「どんなセンターだってペニーと一緒にプレーしたいはずさ。俺たちきっと優勝できる、それも何回もな」
2人がコンビを組んで1年目の93-94シーズン、マジックは球団創設以来初のプレーオフ進出を果たした。続く94-95シーズンには、91~93年にシカゴ・ブルズで3連覇を経験したホーレス・グラントが加わり、開幕から勝ち進む。シャックが29.3点で初の得点王に輝けば、ペニーも20.9点、7.2アシストとさらに数字を伸ばし、オールスターにも出場した。
2人のコンビプレーは冴えわたり、ペニーのパスを受けてのシャックの豪快なアウリープは、オーランド・アリーナの名物となった。「シャックがどう動くかはすべて頭に入っている。いつ、どうやってパスを繰り出せばいいか、全部わかってるんだ。僕たちに言葉なんて必要ないさ」(ペニー)
シャックとペニーは、レイカーズの黄金時代を築いたカリーム・アブドゥル・ジャバ―とマジック・ジョンソン以来、最高のセンターとポイントガードの組み合わせだった。
1994-95シーズン、マジックはイースタン・カンファレンス最多の57勝を記録。プレーオフではマイケル・ジョーダンが復帰したブルズ、そしてインディアナ・ペイサーズを激戦の末に下し、NBAファイナルに進出した。アキーム・オラジュワン率いるヒューストン・ロケッツ相手に1勝もできず優勝は逃したが、シャックとペニーがいれば、今後何年にもわたって優勝戦線に顔を出すのは間違いないと思われた。
文●出野哲也
※『ダンクシュート』2005年7月号掲載原稿に加筆・修正。
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