専門5誌オリジナル情報満載のスポーツ総合サイト

  • サッカーダイジェスト
  • WORLD SOCCER DIGEST
  • スマッシュ
  • DUNK SHOT
  • Slugger
NBA

170cmの日系人がカレッジバスケのスター選手に…【ワタル・“ワット”・ミサカ――NBAで初めて人種の壁を破った男/前編】

大井成義

2019.11.25

 1944年、ユタ大はNIT(ナショナル・インビテーション・トーナメント。当時はNCAAトーナメントより格上だった)1回戦で敗れたものの、追って開催されるNCAAトーナメントに、アーカンソー大の代役として急遽出場することになる。アーカンソー大のスタッフと選手が車で移動中、パンクの修理をしていたところへ他の車が突っ込み、体育部長が死亡、先発選手2人が重症を負うという大事故が発生し、やむなく出場を辞退したのだった。

 ユタ大は代役ながらあれよあれよと勝ち進み、準決勝ではミサカがチームハイタイとなる9得点をマーク。決勝が行なわれたマディソンスクエア・ガーデンには、当時のカレッジ記録となる1万5000人もの観客が詰めかけ、アンダードッグであり、大会のシンデレラチームとなったユタ大に熱い声援を送った。なかでもひときわ大きな声援を一身に浴びたのが、身長170㎝と極端に小柄ながらハッスルプレーを連発し、常にハードワークを欠かさないミサカだった。

 下馬評を覆し、ユタ大は見事優勝を果たす。ニューヨークからユタに戻ると、駅で出迎えていた母が手にしていたのは、アメリカ陸軍からの召集令状だった。その令状を携えて、ソルトレイクシティで盛大に執り行なわれた優勝パレードに参加したそうだが、その心中たるやいかなるものだったろう。
 
 ミサカはアメリカ陸軍情報部日系語学兵となり、日本語の研修期間を経て、通訳としてアジアに向かった。サンディエゴを出港した翌日、日本の無条件降伏を知ったという。フィリピンを経由して日本に到着した後は、連合国翻訳通訳部の一員として、主に原爆投下後の現地調査の任務にあたった。そして46年、2年間の海外赴任を終え、晴れて帰国の途につく。

 ユタ大に復学し、トライアウトを受けてチームに復帰すると、すぐさまNITのタイトルを獲得。決勝でミサカは、ディフェンスの名手としての本領を発揮し、相手チームのエースPG、ラルフ・ビアードを1得点に抑えるという大仕事をやってのけた。全米最優秀選手のビアードは、3年連続でオールアメリカンに選出され、後にNBAでもオールスターに選ばれたほどの逸材である。

 大会MVPの受賞者にミサカが選ばれなかったことに対し、決勝の舞台となったマディソンスクエア・ガーデンの観客からブーイングの嵐が巻き起こったことも、ミサカの際立った活躍ぶりを物語っていた。MVPは関係者の投票によって選ばれ、場内アナウンサーによって1位から順に投票数が読み上げられていくのだが、4位のミサカの名前が読み上げられるまで、ブーイングは鳴り止まなかったという。その現象について、ミサカは次のように語っている。

「ニューヨークはコスモポリタンの街。彼らはありのままの私を見ていたのだろう。1人のバスケットボール選手としてのね」


文●大井成義

※『ダンクシュート』2019年8月号より加筆・修正。
NEXT
PAGE

RECOMMENDオススメ情報

MAGAZINE雑誌最新号