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NBA

わずか3試合の解雇に人種差別はなかったか?【ワタル・“ワット”・ミサカ――NBAで初めて人種の壁を破った男/後編】

大井成義

2019.11.26

47年の第1回ドラフトで全体43位でニックスから指名され入団。しかし、わずか13日間で解雇の憂き目にあった。(C)Getty Images

47年の第1回ドラフトで全体43位でニックスから指名され入団。しかし、わずか13日間で解雇の憂き目にあった。(C)Getty Images

■なぜミサカはわずか3試合で解雇されたのか――

 BAAが創設されたのは1946年6月6日、その1年後に第1回ドラフトがデトロイトで開催された。既存の団体、NBL(ナショナル・バスケットボール・リーグ、49年にBAAと合流しNBAに)と合同で行なわれたそのドラフトで、ニックスはミサカを指名する。契約金は2年4000ドルだった。

 開幕ロースターに順当に残り、開幕戦となる11月13日のホームオープナーでさっそく出場機会を与えられ、2得点を記録したものの、2試合目のホームゲームでは出場機会なし。3試合目のアウェーゲームで5得点をマーク、4試合目のホームゲームで再びプレーイングタイムを手にしたが無得点。

 それから2試合は出番がなく、開幕13日目の11月25日、突然解雇を言い渡される。出場3試合、計7得点。わずか13日間という、あまりに短いプロ生活だった。ミサカはチームメイトの誰とも会わず、ひっそりと去っていった。

 その後、エキシビション・バスケットボールのハーレム・グローブトロッターズからオファーを受けるも辞退し、バスケットボールの世界とはキッパリと別れを告げる。故郷に戻り、ユタ大で機械工学の学士号を取得。大学で知り合った同じ日系二世のケイティーと結婚し(2017年に他界)、2人の子どもをもうけ、残りの人生を家族と仕事のために生きたのだった。
 
 なぜミサカは、わずか3試合の出場で解雇されたのだろうか。ドラフト指名後の入団交渉では、ニックスの創設者にしてGMを務めていたネッド・アイリッシュが、直々にユタまで足を運び契約を交わしたほどで、さらにはホームアリーナで人気があったにもかかわらず、である。3試合で7得点という成績も、物足りない数字ではあるかもしれないが、ルーキーであれば解雇の理由にはならないだろうし、それ以前に元々スコアラーなわけでもない。

 当時のチームメイトで、ミサカが「唯一親しかった」というカール・ブラウンは、『ニューヨーク・タイムズ』のストーリーで「身長が小さすぎたからでは」と述べている。またミサカ本人は「ガードの選手が多かったから」、「解雇理由は人種問題ではなかった」と語っているが、果たしてそうだろうか。身長の問題やガード過多については、開幕前からわかりきっていたはずだ。

 ミサカの人生を描いたドキュメンタリー映画、『トランセンディング:ワット・ミサカ・ストーリー』が2010年に封切られた。その映画の作者が、公開の前年に『ニューヨーク・タイムズ』で、こんな推測をしている。アウェーゲームでミサカに対する度を越した人種差別的な愚弄に、アイリッシュはショックを受け、ひどく落胆させられてしまったのではないか。また、ミサカを貶めようと、チームメイトがわざと誤ったアドバイスを与えていたことをミサカ本人が覚えている、そんな話も聞いたという。
 

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