海外テニス

東レPPOで念願の初優勝を遂げたベンチッチ。「私のプロキャリアのスタート地点だった」という日本への深い思い<SMASH>

内田暁

2025.10.27

五輪で金メダルを掲げた同じコートで、今度は多くの観客に囲まれて東レPPO初優勝を飾ったベンチッチ。その瞬間、ラケットを放り投げて歓喜の声を上げた。写真:金子拓弥(THE DIGEST写真部)

 ストレートへの打球がきれいにオープンコートに刺さると、「キャー!」と響く歓喜の声と共に、ブルーのラケットが宙を舞った。その時彼女の脳裏には、4年前に東京オリンピックで金メダルに輝いた栄光の記憶も、蘇ったという。ただあの時と違うのは、無観客だった有明コロシアムが、今回は8,000人超えの観客で埋まっていることだ。

 東レパンパシフィックオープンテニス2025の、シングルス決勝。ベリンダ・ベンチッチが28歳にして、初めて同大会の頂点に輝いた。

「日本は、私のプロキャリアのスタート地点だった」

 今大会の決勝進出を決めた時、彼女は、12年前の日々を回想した。

 当時16歳のベンチッチは、夏の全米オープンジュニアを最後に、"大人"のツアーへと完全シフト。その最初の大会が、当時9月中旬に開催されていた、東レPPOだった。

「この大会で初めてプレーした時に、1回戦を勝ったことをよく覚えている。それが私にとって、WTAツアーでの初勝利だったから」

 16歳の日を彼女は、懐かしそうに振り返る。

「初戦を突破したおかげで、2回戦ではセンターコートで、ペトラ・クビトワと対戦。あれが私にとって、彼女レベルの有名な選手と初めて対戦した経験でもあった。
 
 その後は、日本のITF大会(ツアー下部大会群)に幾つか出場。そこでランキングを上げたおかげで、翌年1月の全豪オープン予選に初めて出場することもできた」

 これら明瞭な記憶が、日本での日々がいかに大きかったかを物語る。2013年9月に日本に来た時の、彼女の世界ランキングは326位。2カ月後には、184位として日本を去った。

 やや余談になるが、翌年の全豪オープンで予選を突破したベンチッチは、同大会の"本戦出場中最年少選手"となる。そうして本戦初戦で対戦したのは、最年長選手の伊達公子だった。

 かくも日本との関わりも深いベンチッチだが、その後に『天才少女』が歩んだ道は、起伏に富む。16年から17年にかけては手首のケガに悩まされ、手術も経験。7位に達していたランキングは、約1年で300位台まで下降した。

 その後もケガに苦しみながらも、19年には全米オープンベスト4。20年2月にはキャリア最高位の4位に達し、コロナ禍で開催された東京オリンピックでは金メダルを獲得した。

 私生活では、24年に結婚し4月には女児を出産。その半年後にコートに復帰すると、今季開幕時には400位台だったランキングを猛スピードで駆け上がり、世界の13位で今大会を迎えていた。
 
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