海外テニス

バンパーにヒザがねじ込まれる大事故から世界1位へ。90年代復活の勇者となったトーマス・ムスター【テニス復活物語】

久見香奈恵

2020.10.27

試合の帰り、飲酒運転の車に衝突され大事故に遭ったムスターは、その6年後、全仏のカップを掲げた。(C)Getty Images

 ドミニク・ティームの悲願の全米優勝から遡ること25年前、初めて母国オーストリアにグランドスラムの優勝のトロフィーを持ち帰った男がいる。1980年代後半から90年代にかけて活躍した選手であり、今年1月に新設された国別対抗戦ATPカップで母国代表監督を務めたトーマス・ムスターだ。彼は「クレーの王者」とも呼ばれ、通算タイトル44勝のうち42勝はクレーコートでタイトルを獲得した。そして、キャリア途中の悲運の交通事故から輝かしく世界1位にまで返り咲いた不屈の男とも呼べるだろう。

 粘り強いフットワークとパワフルなスピンボールを武器に、ベースライン上でゲームを支配する猛者であった。プロ5年目となる1989年の全豪で初のベスト4を経験し、まさにキャリアの上昇気流に乗り始めたところ、悲劇はおきた。春のマイアミオープン準決勝でヤニック・ノアを破り、決勝は世界1位であるイワン・レンドルとの対戦が決まった2時間後…まさかの事態に巻き込まれる。

 それは試合後の帰り道。車のトランクから荷物を取り出そうとしたとき、無免許で飲酒運転をしていた男の車に後方から衝突され、バンパーに左ヒザを捻じ込まれてしまったのだ。その衝撃は、前十字靭帯と内側側副靭帯を引き裂き、無論レンドルとの決勝には出場できなくなってしまった。全豪準決勝で敗れたレンドルに対するリベンジマッチとしても、様々な思いで挑むはずだった決勝戦。翌週にはトップ10入りも決まっていた彼が病院のベッドで天井を見上げ、いったいどんなことを考えたのだろうか?
 
 筆者自身、今までヒザの靱帯を負傷した選手のキャリアが、悲しくも引退の決断を速めた事例を何度も見てきたことがある。術後に回復したとしても腫れが頻繁にプレーの邪魔をし、俊敏な動きを妨げる原因となってしまうからだ。そして精神的に今までのプレーとのギャップに苦しみ、再浮上したいと願う心が削り落とされていくようにも見えた。

 しかし、この大怪我は、奇しくも強靭なフィジカルを作り上げるための重要な"きっかけ"となる。不屈の男は驚くほど立ち上がるペースも速かった。彼は、術後すぐに容赦ないペースで負傷した左膝以外の部分をトレーニングし始め、わずか半年で大会復帰にこぎつけた。リハビリ期間には「ヒザが使えないなら座って打てばいい」と、テニスへの猛烈な情熱から、左足をフラットに置ける特別な椅子を作りだし、決してボールを打ち続けることを止めなかった。