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【レジェンドの素顔2】レンドルへの闘志に燃えたぎるマッケンロー。生まれた一つの秘策|後編

立原修造

2020.12.16

マッケンローはレンドルとの戦いで、自分の強みであるボレーの重要性に気付いた。写真:THE DIGEST写真部

 大一番におけるレジェンドたちの大胆さや小心をのぞいていくシリーズ「レジェンドの素顔」。
 
 マッケンローがレンドルに約2年間にもわたり負け続けた原因の1つは、得意のサーブが通用しなかったことだ。1983年のボルボマスターズ決勝でレンドルに完敗し、7連敗を喫したマッケンローの尊厳はズタズタになった。そんななか迎えた1983年2月のフィラデルフィアの大会の決勝戦で、マッケンローはレンドルと再び対峙することになった。

  ◆  ◆  ◆

 アイルランド系というのは、アメリカにあって、特に民族同士の結束が固い。アメリカ社会の"主流"といわれるアングロ・サクソン系に長く差別されながら、ともに助け合って生きてきた。ニューヨークのアイリッシュ・バーにはガチガチの愛国者たちが多くいる。そうした連中が、酒杯をあげながらマッケンローを罵倒する。「アイツは我々の面汚しだ!」と。

 ここまで言われてはマッケンローもたまったものじゃない。マッケンロー家は祖父の代にアメリカにやってきた。祖父は銀行の警備員になった。慣れない土地で辛酸をなめ続けた。生活は苦しかった。その孫であるジョンがラケット一本で"エスタブリッシュメント"の仲間入りをして、アイルランド人の株をあげた。オーバーな言い方をすれば、第35代の大統領になったジョン・ケネディ以来のヒーローになったのである。

 ところが、そのヒーローが、アイルランド人の怨念を見事に晴らしてくれるどころか、逆に返り討ちにあっている。こんなみじめなことってない。

「何がなんでも、レンドルだけには負けられない」
 マッケンローの心は、かつてない闘志に燃えたぎっていた。レンドルに勝つためなら、生活の全てを投げ出してもいいとさえ思った。そんな決意の中で、一つの秘策が生まれた。
 
俺にはネットプレーしかない!

 1983年2月、アメリカ・フィラデルフィアで行なわれた全米プロ室内の決勝は、マッケンローとレンドルの顔合わせになった。

 第1セットは従来通り6-4でレンドルが先取した。レンドルの自信満々のプレーが随所に顔をのぞかせ、レンドル楽勝を予感させるほどだった。

 ところが、第2セットに入ると形勢は一転した。マッケンローが勝負に出てきたのだ。
それは、かつて対レンドル戦で見せたことのない戦法だった。

 リターン・ダッシュ!

 レンドルのセカンド・サービスをライジングでたたいて、がむしゃらに前に出たのだ。一見、無謀とも思える作戦だった。レンドルのセカンド・サービスはそれほど弱くない。アプローチ・ショットをミスする危険性が高かったからだ。