初めて挑むグランドスラム(テニスの四大大会)予選は、逆転の白星デビューで飾った。
勝利の瞬間、コートサイドに向けて誇らしげに掲げる拳。その先には、同じ熱で呼応し、そして硬く握手を交わすスタッフたちの姿があった。
コーチのトーマス嶋田。トレーナーの大瀧レオ祐市。そして、マネージャーの佐藤文平。さらに今回帯同はしていないものの、元ナショナルチームのフィジカルコーチでもある松田浩和も、日ごろ師事する一人である。
“チーム島袋”とでもいうべき陣営を整え、彼は「ジュニア時代から憧れていた」というウインブルドン予選に望んでいた。
島袋将は、早稲田大学卒業後にプロの道を歩み始めた25歳。現在のランキングは日本男子勢4番手の162位だが、ジュニア時代は「他の選手たちに比べて、そこまで戦績がなかった」と振り返る。
高校卒業と同時のプロ転向に踏み切らなかったのも、「自信が持てなかった」から。ただ大学進学後も、「卒業したらプロになる」の想いはぶれなかった。
一つの転機となったのは、大学2年生時の全日本学生選手権(インカレ)優勝。それにより、日本ナショナルチームの“大学生枠”に選ばれたことだった。
ナショナルチームメンバーに選ばれれば、NTC(ナショナルトレーニングセンター)の施設を使い、トップ選手たちと練習もできる。
「ナショナルに選んでいただいたのは、ほんっとうに大きくて」
島袋は、言葉に力を込めて続けた。
「一緒に練習させていただくことで、プロの世界に飛び込んでいく厳しさを味わえると同時に、楽しみな気持ちにもなる。何が自分に足りないか? そして、どこが自分はまだ通用するのか? そこら辺も、いろいろと感じられた。常に刺激を頂いたので、他の大学生に比べても意識を高く、自分に厳しくできたのが大きかったと思います」
さらに何にも代えがたいのは、恐らくは人脈だ。
ATPツアーダブルス3勝を誇るトーマス嶋田は、当時のナショナルチームのコーチ。卒業の日が……つまりはプロとして始動する日が迫った時、島袋は自ら嶋田に、「パーソナルコーチになってほしい」と頼み込んだ。
米国生まれで米国を拠点とする嶋田には、現実問題として、フルタイムでツアー帯同するのは困難。それでも可能な限り帯同してもらい、自身がアメリカに出向き練習を見てもらうことで、信頼関係も築いてきた。
勝利の瞬間、コートサイドに向けて誇らしげに掲げる拳。その先には、同じ熱で呼応し、そして硬く握手を交わすスタッフたちの姿があった。
コーチのトーマス嶋田。トレーナーの大瀧レオ祐市。そして、マネージャーの佐藤文平。さらに今回帯同はしていないものの、元ナショナルチームのフィジカルコーチでもある松田浩和も、日ごろ師事する一人である。
“チーム島袋”とでもいうべき陣営を整え、彼は「ジュニア時代から憧れていた」というウインブルドン予選に望んでいた。
島袋将は、早稲田大学卒業後にプロの道を歩み始めた25歳。現在のランキングは日本男子勢4番手の162位だが、ジュニア時代は「他の選手たちに比べて、そこまで戦績がなかった」と振り返る。
高校卒業と同時のプロ転向に踏み切らなかったのも、「自信が持てなかった」から。ただ大学進学後も、「卒業したらプロになる」の想いはぶれなかった。
一つの転機となったのは、大学2年生時の全日本学生選手権(インカレ)優勝。それにより、日本ナショナルチームの“大学生枠”に選ばれたことだった。
ナショナルチームメンバーに選ばれれば、NTC(ナショナルトレーニングセンター)の施設を使い、トップ選手たちと練習もできる。
「ナショナルに選んでいただいたのは、ほんっとうに大きくて」
島袋は、言葉に力を込めて続けた。
「一緒に練習させていただくことで、プロの世界に飛び込んでいく厳しさを味わえると同時に、楽しみな気持ちにもなる。何が自分に足りないか? そして、どこが自分はまだ通用するのか? そこら辺も、いろいろと感じられた。常に刺激を頂いたので、他の大学生に比べても意識を高く、自分に厳しくできたのが大きかったと思います」
さらに何にも代えがたいのは、恐らくは人脈だ。
ATPツアーダブルス3勝を誇るトーマス嶋田は、当時のナショナルチームのコーチ。卒業の日が……つまりはプロとして始動する日が迫った時、島袋は自ら嶋田に、「パーソナルコーチになってほしい」と頼み込んだ。
米国生まれで米国を拠点とする嶋田には、現実問題として、フルタイムでツアー帯同するのは困難。それでも可能な限り帯同してもらい、自身がアメリカに出向き練習を見てもらうことで、信頼関係も築いてきた。