今年1月のテニス四大大会「全豪オープンジュニア」で優勝し、5月には世界1位にも至った坂本怜が、9月20日に、有明コロシアムのセンターコートでプロ転向会見を開いた。会見には、日本テニス協会名誉会長にして、“盛田正明テニスファンド”創設者の盛田氏も同席。同ファンドの支援を受け、14歳から米国フロリダ州IMGアカデミーを拠点とした坂本に、盛田氏も熱いエールを送った。
制服のブレザーに身を包む、長身の18歳のあどけない顔は、いくぶん、緊張しているようだった。まだ身分的には、誉高等学校に籍を置く高校生。ただ18歳を迎え、テニス界における“ジュニア”カテゴリーを卒業する現時点で、テニスで生きる道を歩み始めた。プロになることは、「今年1月の全豪オープンジュニアで優勝した時から、今年中になると決めていた」という。
「テニスを始めてから12年間、準備はしてきたつもり」というその日を、“日本テニス界の聖地”こと有明コロシアムで迎えた。
テニスの世界において、「プロ」の定義は、はっきり決まっているわけではない。日本では、テニス協会にプロ登録した時点でその肩書を得られるが、坂本自身、以前から賞金を得られるプロの国際大会には出場してきた。
ただ、ジュニアもしくはアマチュアと“プロ”の間に引かれる、不可視ながら明確な一線はあるという。坂本自身、昨年の秋に日本開催のATPチャレンジャーに出場した際、その差を、身をもって痛感した。
数年前まで坂本は、自身の持ち味を「背が高くて攻められるが、意外にしこい(しつこく粘り強い)」と言っていた。だが昨年11月、兵庫ノアチャレンジャーの予選初戦で内山靖崇に完敗を喫した時、意識が変わったという。
「自分から攻めなくては、全然ポイントが取れない。そういうプレーを選んだというより、攻める以外に選択肢がなかった」
その敗戦を機に、坂本のテニスは変わった。以降の大会では、サービスとフォアハンドで攻めまくる。背水の陣的な戦術ではあるが、すると思った以上に、自分の攻撃が通用した。内山に敗れた2週間後の横浜チャレンジャーでは、世界111位(当時)のユーリ・ロディオノにストレートで快勝。
大きな手応えをと共に日本から持ち帰ったプレースタイルは、錦織圭をして「こんなに短期間で変わることがあるんだ!?」と驚嘆させたほど。坂本が全豪ジュニアを制したのは、そのわずか3カ月後のことである。
制服のブレザーに身を包む、長身の18歳のあどけない顔は、いくぶん、緊張しているようだった。まだ身分的には、誉高等学校に籍を置く高校生。ただ18歳を迎え、テニス界における“ジュニア”カテゴリーを卒業する現時点で、テニスで生きる道を歩み始めた。プロになることは、「今年1月の全豪オープンジュニアで優勝した時から、今年中になると決めていた」という。
「テニスを始めてから12年間、準備はしてきたつもり」というその日を、“日本テニス界の聖地”こと有明コロシアムで迎えた。
テニスの世界において、「プロ」の定義は、はっきり決まっているわけではない。日本では、テニス協会にプロ登録した時点でその肩書を得られるが、坂本自身、以前から賞金を得られるプロの国際大会には出場してきた。
ただ、ジュニアもしくはアマチュアと“プロ”の間に引かれる、不可視ながら明確な一線はあるという。坂本自身、昨年の秋に日本開催のATPチャレンジャーに出場した際、その差を、身をもって痛感した。
数年前まで坂本は、自身の持ち味を「背が高くて攻められるが、意外にしこい(しつこく粘り強い)」と言っていた。だが昨年11月、兵庫ノアチャレンジャーの予選初戦で内山靖崇に完敗を喫した時、意識が変わったという。
「自分から攻めなくては、全然ポイントが取れない。そういうプレーを選んだというより、攻める以外に選択肢がなかった」
その敗戦を機に、坂本のテニスは変わった。以降の大会では、サービスとフォアハンドで攻めまくる。背水の陣的な戦術ではあるが、すると思った以上に、自分の攻撃が通用した。内山に敗れた2週間後の横浜チャレンジャーでは、世界111位(当時)のユーリ・ロディオノにストレートで快勝。
大きな手応えをと共に日本から持ち帰ったプレースタイルは、錦織圭をして「こんなに短期間で変わることがあるんだ!?」と驚嘆させたほど。坂本が全豪ジュニアを制したのは、そのわずか3カ月後のことである。