「試合がない時が、思い切って技術を変えられる時。試合がない期間がどれくらいかも分からなかったけれど、中国ならアランも他のコーチもいるし、練習できる選手たちもたくさんいるので」
大会がなくなった不遇の期間を、内島はむしろ、腰を据えて練習する好機ととらえた。特にフォアハンドは、抜本的な変革に取り組んだという。
「まずはラケットを変え、フォアハンドはグリップの握り方から変えました。わたしのグリップはもともと厚かったので、もうちょっと薄くしたんです」
『厚いグリップ』とは、地面に置いたラケットのグリップを上からつかむような握り方。ボールにスピンを掛けるのに適していると言われる。
内島はその握りの角度を、ラケット面と手のひらが同方向に向く方へと少しスライドさせた。狙いは、「できることを増やす」こと。スライスやボレーなどを選択肢に加え、プレーの幅を広げる青写真を、わずかに変えた角度の先に見ていた。
長引くコロナ禍と中国の厳しい入国規制のため、最低3か月を覚悟したツアー離脱は半年になり、そして1年を超えていった。
その間、同年代の日本人選手たちは、海外遠征に出てランキングを上げていく。日本国内でも、同期で仲の良い川村茉那と光崎楓奈が、全日本選手権で頂上決戦を演じた。
それら周囲の動きを見て、焦りは感じなかっただろうか?
「なかったですね」と内島は、向けた問いに即答する。
「自分はそれこそ、色々と直されていたので。直している最中に、試合に出て自信を持って挑めるかと言ったら、そうは言えなかった。自分が納得いくまで練習してから遠征に行こうと思ったので。焦りはなかったですね」
その納得感が満たされた機と、効率的な遠征スケジュールを組めるタイミングが重なったのが、昨年8月。約1年半ぶりに出場した最初のチュニジア下部大会(賞金総額1万5000ドル)で、いきなりの2大会連続優勝を成した。
この好スタートで勢いを得た内島は、出場大会のレベルも上げていく。フォアハンドの手応えが確信に変わりはじめたのは、ポルトガルの賞金総額2万5000ドル大会で優勝した時。
大会がなくなった不遇の期間を、内島はむしろ、腰を据えて練習する好機ととらえた。特にフォアハンドは、抜本的な変革に取り組んだという。
「まずはラケットを変え、フォアハンドはグリップの握り方から変えました。わたしのグリップはもともと厚かったので、もうちょっと薄くしたんです」
『厚いグリップ』とは、地面に置いたラケットのグリップを上からつかむような握り方。ボールにスピンを掛けるのに適していると言われる。
内島はその握りの角度を、ラケット面と手のひらが同方向に向く方へと少しスライドさせた。狙いは、「できることを増やす」こと。スライスやボレーなどを選択肢に加え、プレーの幅を広げる青写真を、わずかに変えた角度の先に見ていた。
長引くコロナ禍と中国の厳しい入国規制のため、最低3か月を覚悟したツアー離脱は半年になり、そして1年を超えていった。
その間、同年代の日本人選手たちは、海外遠征に出てランキングを上げていく。日本国内でも、同期で仲の良い川村茉那と光崎楓奈が、全日本選手権で頂上決戦を演じた。
それら周囲の動きを見て、焦りは感じなかっただろうか?
「なかったですね」と内島は、向けた問いに即答する。
「自分はそれこそ、色々と直されていたので。直している最中に、試合に出て自信を持って挑めるかと言ったら、そうは言えなかった。自分が納得いくまで練習してから遠征に行こうと思ったので。焦りはなかったですね」
その納得感が満たされた機と、効率的な遠征スケジュールを組めるタイミングが重なったのが、昨年8月。約1年半ぶりに出場した最初のチュニジア下部大会(賞金総額1万5000ドル)で、いきなりの2大会連続優勝を成した。
この好スタートで勢いを得た内島は、出場大会のレベルも上げていく。フォアハンドの手応えが確信に変わりはじめたのは、ポルトガルの賞金総額2万5000ドル大会で優勝した時。