特別支援学校の教員として働いていた時に、好きな自転車が職業になる競輪の存在を知った。
「やらずに後悔より、やって後悔」と一念発起。
2年弱の自転車経験ながら技能試験に合格し、いま養成所で充実の日々を過ごす。
自分を信じて突き進む道の先には、大きな夢が広がっている。
――子どもの頃は、どんな夢を持っていましたか?
「たくさん夢がある子どもで、その時々に活躍している方をテレビで見て、いろいろな職種に憧れるタイプでした。消防士になりたいと思ったり、看護師になりたいと思ったり……。最終的に体育の先生になろうと心に決めて、教育大学に進みました」
――なんというチームでバスケットボールを始めたんですか?
「長野県須坂市で、地元の方が教えてくださる須坂のミニバスケットボールクラブです。バスケの楽しさとか、基礎を教えてくれるようなチームでした。そのまま地元の中学校に進学して、相森中学校のバスケ部で続けました。そこまで強いチームではなく、みんなで協力して市内大会で3位になれる程度。県大会には進めませんでした。高校も地元にある須坂高校に進んで、そこでも3年間バスケばっかりしていました」
――ポジションは?
「高校までガードで、大学からシューターになりました。大学は力のある選手が集まっていたので、3ポイントシュートを練習してシューターになると決めたんです」
――プロ選手を目指していたんですか?
「バスケを職業にするというよりも、身体を動かす仕事に就きたいと思って、保健体育の先生を目指すようになりました。高校を卒業して宮城教育大に進み、大学時代に中学校、高校、小学校、特別支援学校で教えられる免許を取って、社会人になって特別支援学校で働くようになりました」
――特別支援学校を希望した理由は?
「子どもたちが、とっても素直で可愛くて。教育実習に行った時に心を掴まれました。最初は徳島県の小学校の支援学級で1年間、講師として働かせてもらって、次の年に教員採用試験に合格できたので、徳島県内の支援学校で働いていました」
――徳島県で教員を目指したのは、なぜですか?
「大学3年生の時、最後の大会が開かれたのが鳴門市だったんです。私は(海がない)長野県民なので、海に強い憧れがありまして。すごくいいところだなぁって。いろいろな人との縁もありましたし、人生一度きりなので思い切って生まれ育った長野県じゃなく、徳島県で教員になろうと思いました。徳島の2つの学校に、4年間勤めました」
――そんな教員生活を辞めて、どうして競輪の道に?
「土日も仕事のために過ごす生活に疑問を感じて、趣味を充実させたいと思ったんです。そんな時に同じ職場の方にロードバイクを勧められて、初めてのボーナスで思い切ってロードバイクを買ってしまったんです。乗り始めたらすごく楽しくて、土日で計200㎞走るくらいハマりました。しばらくして、その方に『そんなに自転車が好きなら競輪選手を目指してみたら』と言われたのが、競輪選手を目指したきっかけです」
「やらずに後悔より、やって後悔」と一念発起。
2年弱の自転車経験ながら技能試験に合格し、いま養成所で充実の日々を過ごす。
自分を信じて突き進む道の先には、大きな夢が広がっている。
――子どもの頃は、どんな夢を持っていましたか?
「たくさん夢がある子どもで、その時々に活躍している方をテレビで見て、いろいろな職種に憧れるタイプでした。消防士になりたいと思ったり、看護師になりたいと思ったり……。最終的に体育の先生になろうと心に決めて、教育大学に進みました」
――なんというチームでバスケットボールを始めたんですか?
「長野県須坂市で、地元の方が教えてくださる須坂のミニバスケットボールクラブです。バスケの楽しさとか、基礎を教えてくれるようなチームでした。そのまま地元の中学校に進学して、相森中学校のバスケ部で続けました。そこまで強いチームではなく、みんなで協力して市内大会で3位になれる程度。県大会には進めませんでした。高校も地元にある須坂高校に進んで、そこでも3年間バスケばっかりしていました」
――ポジションは?
「高校までガードで、大学からシューターになりました。大学は力のある選手が集まっていたので、3ポイントシュートを練習してシューターになると決めたんです」
――プロ選手を目指していたんですか?
「バスケを職業にするというよりも、身体を動かす仕事に就きたいと思って、保健体育の先生を目指すようになりました。高校を卒業して宮城教育大に進み、大学時代に中学校、高校、小学校、特別支援学校で教えられる免許を取って、社会人になって特別支援学校で働くようになりました」
――特別支援学校を希望した理由は?
「子どもたちが、とっても素直で可愛くて。教育実習に行った時に心を掴まれました。最初は徳島県の小学校の支援学級で1年間、講師として働かせてもらって、次の年に教員採用試験に合格できたので、徳島県内の支援学校で働いていました」
――徳島県で教員を目指したのは、なぜですか?
「大学3年生の時、最後の大会が開かれたのが鳴門市だったんです。私は(海がない)長野県民なので、海に強い憧れがありまして。すごくいいところだなぁって。いろいろな人との縁もありましたし、人生一度きりなので思い切って生まれ育った長野県じゃなく、徳島県で教員になろうと思いました。徳島の2つの学校に、4年間勤めました」
――そんな教員生活を辞めて、どうして競輪の道に?
「土日も仕事のために過ごす生活に疑問を感じて、趣味を充実させたいと思ったんです。そんな時に同じ職場の方にロードバイクを勧められて、初めてのボーナスで思い切ってロードバイクを買ってしまったんです。乗り始めたらすごく楽しくて、土日で計200㎞走るくらいハマりました。しばらくして、その方に『そんなに自転車が好きなら競輪選手を目指してみたら』と言われたのが、競輪選手を目指したきっかけです」




