アスリートへのインタビューを通し、明日への一歩を応援する「Do My Best, Go!」。学生時代まで野球に打ち込み、大学卒業後はフジテレビアナウンサーとして活躍。現在はスポーツビジネス企業株式会社Inflightを経営する田中大貴さんに、食事やジュニアアスリートへのアドバイスなどをお伺いしました。
―野球を始めたきっかけを教えてください。
小学4年生の時、父の影響で始めました。小中学校ぐらいまではピッチャーもやっていましたが、肩を痛めてしまい高校では打者に専念するようになりました。
―高校時代、野球と勉強の両立はどのようにしていましたか。
通っていた高校が進学校だったので、野球をするには勉強をしないとグラウンドに立たせてもらえませんでした。甲子園を目指していましたし、大学でも野球を続けるために野球に一番時間を使っていた分、勉強を集中してやっている人には勝てないと思ってました。なので3年生の夏に野球部を辞めてからは勉強一本に集中するために荷物を持って祖母の家に行きました。夏休みの間は祖母の家の2階の奥の部屋にこもって毎日1時間半の睡眠で勉強をして、2学期が始まってからは実家に戻り、また1時間半睡眠で勉強をしていました。
―その努力が実り志望校の慶応大学に無事に合格しましたね。
高校3年生の11月頃にアドミッションオフィス(AO)入試を受け、12月に合格発表がありました。当時は肩の手術をした影響で4月に野球部に入部した時は腕をつったままのスタートでした。でも1、2年生の間は試合に出られなくても3年生か4年生で勝負できるようにしたいと考えていました。
―大学経由でプロに進みたいという希望を持ちながらの手術という選択だったのでしょうか。
そうですね。僕は松坂大輔さんと同学年の“松坂世代”。後に100人以上がプロ野球入りした世代です。東京六大学に行ってレベルの高い松坂世代の皆さんと一緒にプレーしながら4年間研鑽を積んでいけばプロに行ける可能性は高いのではないかと考えていました。
―大学では打者として頭角を現すようになりました。
高校は野球では無名の学校でしたし、プロに注目されたこともありませんでしたが、それだけに反骨心はありました。田舎の無名校の人間であってもプロの世界で勝負して上がっていく姿を見せられるのではないかと心の中で考えていました。実際に3年生の終わりぐらいから4年生の春先にかけては状態も良かったので、このまま行くとプロに引っかかるんじゃないかとは思っていました。
―そんななかでフジテレビを受けた理由はどのようなものでしたか。
監督からは社会人で野球を続けたらどうだと言ってくださるなかで、社会勉強として就職活動をしてみますと伝えて、たまたま1社受けに行ったのがフジテレビのアナウンサー職で内定をいただきました。
―野球はきっぱりと諦められたのでしょうか。
いえ、内定をいただいたときはまだ野球選手への思いもありました。慶應義塾の野球部にはプロでレギュラーになってタイトルを獲るイメージができないのなら企業に行って活躍しなさいという考えがあって、野球を続けるか就職するかフジテレビの内定式ぎりぎりになっても悩み続けていましたね。
自分がプロとして通用するだろうかと考えたときに和田毅君(当時早稲田大学、元福岡ソフトバンクスホークス)のボールを打てないとプロでは勝負できないのではないかと思っていたところ、すごく調子の良かった春の早慶戦で和田君に対して結果が出せなかった。悩み抜いた末に就職を決めました。
―野球を始めたきっかけを教えてください。
小学4年生の時、父の影響で始めました。小中学校ぐらいまではピッチャーもやっていましたが、肩を痛めてしまい高校では打者に専念するようになりました。
―高校時代、野球と勉強の両立はどのようにしていましたか。
通っていた高校が進学校だったので、野球をするには勉強をしないとグラウンドに立たせてもらえませんでした。甲子園を目指していましたし、大学でも野球を続けるために野球に一番時間を使っていた分、勉強を集中してやっている人には勝てないと思ってました。なので3年生の夏に野球部を辞めてからは勉強一本に集中するために荷物を持って祖母の家に行きました。夏休みの間は祖母の家の2階の奥の部屋にこもって毎日1時間半の睡眠で勉強をして、2学期が始まってからは実家に戻り、また1時間半睡眠で勉強をしていました。
―その努力が実り志望校の慶応大学に無事に合格しましたね。
高校3年生の11月頃にアドミッションオフィス(AO)入試を受け、12月に合格発表がありました。当時は肩の手術をした影響で4月に野球部に入部した時は腕をつったままのスタートでした。でも1、2年生の間は試合に出られなくても3年生か4年生で勝負できるようにしたいと考えていました。
―大学経由でプロに進みたいという希望を持ちながらの手術という選択だったのでしょうか。
そうですね。僕は松坂大輔さんと同学年の“松坂世代”。後に100人以上がプロ野球入りした世代です。東京六大学に行ってレベルの高い松坂世代の皆さんと一緒にプレーしながら4年間研鑽を積んでいけばプロに行ける可能性は高いのではないかと考えていました。
―大学では打者として頭角を現すようになりました。
高校は野球では無名の学校でしたし、プロに注目されたこともありませんでしたが、それだけに反骨心はありました。田舎の無名校の人間であってもプロの世界で勝負して上がっていく姿を見せられるのではないかと心の中で考えていました。実際に3年生の終わりぐらいから4年生の春先にかけては状態も良かったので、このまま行くとプロに引っかかるんじゃないかとは思っていました。
―そんななかでフジテレビを受けた理由はどのようなものでしたか。
監督からは社会人で野球を続けたらどうだと言ってくださるなかで、社会勉強として就職活動をしてみますと伝えて、たまたま1社受けに行ったのがフジテレビのアナウンサー職で内定をいただきました。
―野球はきっぱりと諦められたのでしょうか。
いえ、内定をいただいたときはまだ野球選手への思いもありました。慶應義塾の野球部にはプロでレギュラーになってタイトルを獲るイメージができないのなら企業に行って活躍しなさいという考えがあって、野球を続けるか就職するかフジテレビの内定式ぎりぎりになっても悩み続けていましたね。
自分がプロとして通用するだろうかと考えたときに和田毅君(当時早稲田大学、元福岡ソフトバンクスホークス)のボールを打てないとプロでは勝負できないのではないかと思っていたところ、すごく調子の良かった春の早慶戦で和田君に対して結果が出せなかった。悩み抜いた末に就職を決めました。




