1990年代から2000年代初頭、日本では現在を上回るほどの“格闘技ブーム”があった。リードしたのは、立ち技イベント「K-1」。その個性豊かなファイターたちの魅力を振り返る。
―――◆―――◆―――
歴史はここから始まった。
1993年4月30日、国立代々木競技場第一体育館で開催されたK-1グランプリの第1回大会だ。
打撃系格闘技の猛者を一堂に集め、8人による1DAYトーナメントで最強を決める――。この破天荒なアイディアを実現させたのは、過去にもヒット企画を連発していた正道会館の石井和義館長だった。
そんな石井館長が送り込んだのは、正道会館のトップ選手で、リングス参戦でも知名度を上げていた佐竹雅昭。ヘビー級の実力者かつ明るいキャラクターで人気を博していた男である。この“日本のエース”がいてこそ、K-1は大会として成立した。「あの佐竹が世界に挑む」。そんな構図で見るファンも多かったはずだ。
一方、世界各国から集まったのは、キック界最強の名をほしいままにしていたモーリス・スミス(アメリカ)、ムエタイのチャンプア・ゲッソンリット(タイ)、モーリスを破って世界的認知度を高めていたピーター・アーツ(オランダ)。スタン・ザ・マン(オーストラリア)は欠場となったものの、間違いなく最強決定戦と言えるメンバーだった。
しかし、いずれのメンバーも優勝はおろか決勝進出もできなかった。ファイナルで闘ったのは、ブランコ・シカティック(クロアチア)とアーネスト・ホースト(オランダ)。彼らはトーナメント出場選手の中でも最後に決まった選手たちで、“穴埋め”的な印象もあった。インターネットのない時代、情報は専門誌などごく限られたものしかなかった。
ところが、“無名”の2人が強かった。1回戦でアーツに勝ったホーストは、準決勝でモーリスをハイキックでKO。一方のシカティックも1回戦でチャンプア、準決勝で佐竹に、いずれもKO勝ちを収めたのである。
この「シカティックvsホースト」は、当時の日本の格闘技ファンにとっては、あまりにも意外な組み合わせだった。そのため、決勝戦を前にした会場では、それぞれヨーロッパでの実績があらためてアナウンスされたのを覚えている。
劇的な試合の連続となったトーナメント。その最後もまた劇的だった。1ラウンド、シカティックが放ったロングレンジの右ストレート一発でホーストは後方に吹っ飛び、失神。KO勝ちで頂点に立ったクロアチア人は、この時、38歳だった。
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歴史はここから始まった。
1993年4月30日、国立代々木競技場第一体育館で開催されたK-1グランプリの第1回大会だ。
打撃系格闘技の猛者を一堂に集め、8人による1DAYトーナメントで最強を決める――。この破天荒なアイディアを実現させたのは、過去にもヒット企画を連発していた正道会館の石井和義館長だった。
そんな石井館長が送り込んだのは、正道会館のトップ選手で、リングス参戦でも知名度を上げていた佐竹雅昭。ヘビー級の実力者かつ明るいキャラクターで人気を博していた男である。この“日本のエース”がいてこそ、K-1は大会として成立した。「あの佐竹が世界に挑む」。そんな構図で見るファンも多かったはずだ。
一方、世界各国から集まったのは、キック界最強の名をほしいままにしていたモーリス・スミス(アメリカ)、ムエタイのチャンプア・ゲッソンリット(タイ)、モーリスを破って世界的認知度を高めていたピーター・アーツ(オランダ)。スタン・ザ・マン(オーストラリア)は欠場となったものの、間違いなく最強決定戦と言えるメンバーだった。
しかし、いずれのメンバーも優勝はおろか決勝進出もできなかった。ファイナルで闘ったのは、ブランコ・シカティック(クロアチア)とアーネスト・ホースト(オランダ)。彼らはトーナメント出場選手の中でも最後に決まった選手たちで、“穴埋め”的な印象もあった。インターネットのない時代、情報は専門誌などごく限られたものしかなかった。
ところが、“無名”の2人が強かった。1回戦でアーツに勝ったホーストは、準決勝でモーリスをハイキックでKO。一方のシカティックも1回戦でチャンプア、準決勝で佐竹に、いずれもKO勝ちを収めたのである。
この「シカティックvsホースト」は、当時の日本の格闘技ファンにとっては、あまりにも意外な組み合わせだった。そのため、決勝戦を前にした会場では、それぞれヨーロッパでの実績があらためてアナウンスされたのを覚えている。
劇的な試合の連続となったトーナメント。その最後もまた劇的だった。1ラウンド、シカティックが放ったロングレンジの右ストレート一発でホーストは後方に吹っ飛び、失神。KO勝ちで頂点に立ったクロアチア人は、この時、38歳だった。