1990年代から2000年代初頭、日本では現在を上回るほどの"格闘技ブーム"があった。リードしたのは、立ち技イベント「K-1」。その個性豊かなファイターたちの魅力を振り返る。
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今から20年ほど前のK-1中量級全盛期。最高の結果を残した選手はアンディ・サワー(オランダ)と言っていいかもしれない。
サワーが日本初登場を果たしたのは、2002年。K-1 WORLD MAXの第1回大会が開催された年だ。ただし、彼が出場したのは5月のK-1ではなく、7月のシュートボクシングだった。K-1 MAX以上の歴史を持つ70kgトーナメント、横浜文化体育館での「S-cup」である。
この時、サワーは19歳。愛着のあったクマのぬいぐるみを抱いてリングに上がる姿、そしてその表情は、まだまだあどけなかった。だが、ゴングが鳴ると彼は一変した。パンチ、蹴りともに一級品で、バランスの取れた試合運びを見せつけて優勝を果たした。
当初、彼はK-1 MAXに出場するはずだった。だが負傷欠場となり、代打として出場したのが、同じジムの後輩で、同胞のアルバート・クラウス(オランダ)。そのクラウスは準決勝で魔裟斗を下して、決勝でもムエタイ王者ガオラン・カウイチット(タイ)をKOして初代優勝者となった。
もしケガをしていなければ、実力的にはサワーが優勝していてもおかしくはなかった。だが、数奇な運命は彼をシュートボクシングへ導き、それが大記録につながった。
2年おきに開催されるS-cupでサワーは2002年を皮切りに2004年、2008年、2012年と4回も優勝。2003年からはK-1にも参戦し、こちらは2005年、2007年に頂点に立っている。2005年は決勝でブカアーオ(タイ)、2007年には魔裟斗といずれも当時のK-1でトップクラスの実力者に勝利。後者の引退試合の相手となったのもサワーだった。
強豪が集う70kgの2大世界トーナメントで、これだけの優勝回数を誇る選手は他にいない。それでもモチベーションは衰えず、MMAにもチャレンジするなどエネルギッシュな格闘技人生をサワーは送った。
世界トップクラスの実力者だが、人懐っこい性格で、日本でも愛された。とくにシュートボクシングの本部ジムがある浅草は"庭"のようなもので、付き添いなしで出歩き、馴染みの店もあったという。
K-1の試合でも(ルールで禁止となるまで)シュートボクシングの公式ウェアであるロングスパッツを着用するなど、"シュートボクサー"としてのプライドも強かった。単なる外国人ファイターではなく"日本発の格闘技シュートボクシング代表"であるのもサワーの魅力でもあった。
のちにシュートボクシングからは離れたが、彼の勇姿はユニークだったロングスパッツとともに多くの人々の脳裏に残っている。
文●橋本宗洋
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この時、サワーは19歳。愛着のあったクマのぬいぐるみを抱いてリングに上がる姿、そしてその表情は、まだまだあどけなかった。だが、ゴングが鳴ると彼は一変した。パンチ、蹴りともに一級品で、バランスの取れた試合運びを見せつけて優勝を果たした。
当初、彼はK-1 MAXに出場するはずだった。だが負傷欠場となり、代打として出場したのが、同じジムの後輩で、同胞のアルバート・クラウス(オランダ)。そのクラウスは準決勝で魔裟斗を下して、決勝でもムエタイ王者ガオラン・カウイチット(タイ)をKOして初代優勝者となった。
もしケガをしていなければ、実力的にはサワーが優勝していてもおかしくはなかった。だが、数奇な運命は彼をシュートボクシングへ導き、それが大記録につながった。
2年おきに開催されるS-cupでサワーは2002年を皮切りに2004年、2008年、2012年と4回も優勝。2003年からはK-1にも参戦し、こちらは2005年、2007年に頂点に立っている。2005年は決勝でブカアーオ(タイ)、2007年には魔裟斗といずれも当時のK-1でトップクラスの実力者に勝利。後者の引退試合の相手となったのもサワーだった。
強豪が集う70kgの2大世界トーナメントで、これだけの優勝回数を誇る選手は他にいない。それでもモチベーションは衰えず、MMAにもチャレンジするなどエネルギッシュな格闘技人生をサワーは送った。
世界トップクラスの実力者だが、人懐っこい性格で、日本でも愛された。とくにシュートボクシングの本部ジムがある浅草は"庭"のようなもので、付き添いなしで出歩き、馴染みの店もあったという。
K-1の試合でも(ルールで禁止となるまで)シュートボクシングの公式ウェアであるロングスパッツを着用するなど、"シュートボクサー"としてのプライドも強かった。単なる外国人ファイターではなく"日本発の格闘技シュートボクシング代表"であるのもサワーの魅力でもあった。
のちにシュートボクシングからは離れたが、彼の勇姿はユニークだったロングスパッツとともに多くの人々の脳裏に残っている。
文●橋本宗洋
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