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食と体調管理

日本バスケ界のレジェンド「折茂武彦」が語る、現役生活27シーズンを過ごせた裏にある食への意識変化と、自身のバスケットボールストーリー

鳴神富一

2022.09.01

今年6月18日に北海きたえーるにて『折茂武彦引退試合』が開催された(写真提供:©LEVANGA HOKKAIDO)

今年6月18日に北海きたえーるにて『折茂武彦引退試合』が開催された(写真提供:©LEVANGA HOKKAIDO)

 アスリートへのインタビューを通し、明日への一歩を応援する「Do My Best, Go!」。今回登場するのは、日本バスケ界のレジェンドであり、現在はBリーグ レバンガ北海道の代表取締役社長でもある、折茂武彦氏。

 現役生活を長く継続できた理由には40歳を越えたあたりから気づき始めた食への意識変化があった。また、自身のバスケを始めてからのストーリー、クラブの社長としての未来への想いも合わせて伺った。

ー◆ー◆ー◆ー

■兄がきっかけで始めたバスケ、センターからガードへのコンバート

――そもそもバスケを始めたきっかけを教えていただけますか。

 きっかけは本当に単純で3つ上の兄がバスケをしていたからというだけです。兄とは中学時代に入れ替わりで自分が入学したので、兄の後輩から誘われて中学生で部活に入って始めたという形ですね。

 バスケが特別大好きだとかはありませんでした。むしろ野球やサッカーに興味があったくらいで、「バスケって何?」みたいな感じでしたね。チームは強くもなく、自分自身はミニバスもしていなかったから、無茶苦茶下手でした(笑)加えて物凄く情熱を注いで夢中でやっていなかったから、技術のレベルもなかなか上がらなかったです。

――シューターやスコアラーのイメージが折茂さんにはありますが、当時はどのポジションでプレーしていたのですか。

 毎年、バスケの技術は向上しなくても、入学当初は153cmだった身長が中学3年生の時には186cmまで伸びたんですよ。そうなると自動的に5番ポジション、センターでした。当時は大きい選手はドリブルを使わなくていいという感じだったから、とにかくゴール下とペイントエリアのシュート練習していました。

――センターからどのような流れでガードポジションへコンバートされて行ったのですか。

 高校時代も私よりも大きい選手がそれほどいなかったので、チームでは4番や5番のポジションでした。コンバートとなるきっかけは、インターハイで得点王だったのもあって、今で言うU‐18日本代表に選出された事です。選ばれたメンバーの中には、やはり2m級の選手たちがいるから、自然とポジションが上になっていきました。

 でも、最終的には大学時代にガードになった感じです。大学でも同じように2m級の選手がいたので、ポジションとしては2番か3番になりました。非常に苦戦もしましたし、壁にぶち当たった形でしたね。今まではディフェンスを背にプレーしていたのが、目の前に今度はディフェンスがいる中でボールをもらわないといけない。そして、それまでしてこなかったドリブルや3ポイントシュートを打つ事もしないといけないレベルからスタートでしたからね。

 当時、190cmくらいの身長があったので2番ポジションとしては大きい方でした。今までの経験を活かしてマッチアップによってはポストアップから得点を取ったり、色々な事をやりながら得点を重ねたんです。恐らく皆さんの中にはシューターとしてのイメージが強いと思いますが、私自身は基本的に「自分はシューター」と思った事が無い。単純にスコアを取りに行きたいから、3ポイントシュートでもフリースローでも手段は何でも良かったのはあります。

 本当に元々、特別に何か秀でたものが人よりなかったので、人より多く考えましたね。どうすれば点数を取れるのかっていうのも含めて、自分がどうやったらこの世界で生きていけるかという事を考えて日々過ごしていました。
 
■強豪ではなかったトヨタ自動車へ入団、覚悟の末に結果を残す

――大学時代にはインカレで優勝して、当時は強豪ではなかったトヨタ自動車に入団します。きっかけは何だったのでしょうか。

 当時のトヨタ自動車は、1部と2部を行き来するような感じの決して強いチームではありませんでした。インカレで優勝して、M V Pを獲得して、両親を含めて色々な人に「なぜ、トヨタなの?」と言われたくらいです。

 自分のビジョンの中でやはり日本代表に選ばれたいという気持ちが芽生えてきました。有難い事に強豪も含めて色々なチームからお誘い頂きました。でも、強いチームに行ったら試合に出られないだろうとイメージがあったんです。

 試合に出られなかったら、結果も残せないと同時に、日本代表には多分選ばれない。そうであれば、試合に出られる事が先決でした。みんなが思い通りのプレーができて、同時に自分自身の結果も残せるかに焦点を当てた時に、敢えてトヨタ自動車に行くのがゴールに近づけると感じたんですよね。

――プロ志向の強かった折茂さんでしたが、当時はプロになるというイメージはあったのですか。

 当時の実業団リーグではまず1年間、働きながらバスケをするのが当然の事で、午前中から仕事をして、終わってから練習をする形です。今ではレギュラーシーズンが60試合ありますが、当時は10試合からスタートして、時代を経て試合数が増えていく感じでした。試合数から見ても会社としてバスケに本気になっていた訳ではなく、仕事がメイン。選手たちもバスケを利用して一流企業や良い企業に就職するという感じでした。

 でも、私自身は仕事には興味はなかったし、「バスケをプレーしに来たのに、なんで仕事をするのか」という葛藤が徐々に生まれてきて、2年目にプロみたいな形を取れないかと上司に相談したんです。

 当時は不景気もあり、そういう形態は難しいという判断でしたが、契約選手という形であればO Kと返答をもらえました。契約選手といってもプロと一緒で、バスケしかしない。その代わり、上司からはリスクを背負う事になるよと言われました。怪我で試合に出られない、結果が残せないと契約解除になるわけです。だから、実は1度退職届をトヨタに提出して、それから再契約をする形で契約選手になったんです。

 両親が自営業だったのもあり、自分の性格からサラリーマンという事に少し抵抗がありました。バスケットで結果を残して、その分の対価を得る。自分の中ではバスケをやり続けたいから、専属の契約社員になりたいという感じでした。その代わりに自分自身の結果のも残すし、チームを優勝させる。そう宣言してから初優勝するまでに9年掛かりましたけどね。

――時間は掛かりましたが、結果をしっかりと残されました。

 当初は自分の結果だけを追い求めてプレーしていました。やはり日本代表に選ばれるために、自分自身の数字が全てだと感じていて、当時は結構わがままなプレーもしてしまったんです。その中でチームを勝たせる事ができていませんでした。契約交渉の際に今以上の契約条件にするためには、チームを勝たせないといけないと会社から言われたんです。

 その事で自分自身をシフトチェンジして、結果を残してチームを勝たせる方向に向いていきました。チームに加入してから5年目くらいに、そのスイッチが入ったので、そこから4年掛かっての初優勝でしたね。
 

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