格闘技・プロレス

「落ちたらまた這い上がってくればいい」――心を揺さぶった言葉の数々。“燃える闘魂”アントニオ猪木は何を残したのか?

萩原孝弘

2022.10.03

圧倒的なカリスマで格闘技ファンだけでなく、一般層にも愛された猪木氏。偉大なレスラーはこの世に何を残したのか。写真:木村盛綱/アフロ

"風が頬を撫でた"

 普段は風を感じるなど皆無の後楽園ホールのエレベーター前、カメラマンとして準備をしている最中にそれを感じた。条件反射で振り向いた先にいたのは、エレベーターから降りてくるとろこのアントニオ猪木。風の主は、プロレス界の英雄だったのだ。

 新日本プロレスが誕生したのは1972年。当時のプロレスはテレビのゴールデンタイムに放送され、1970年代生まれの男子にとっては身近な娯楽だった。その中でも団体の創設者でもあった猪木の放つ光はとてつもなく眩しかった。

 稚心に刻まれた異種格闘技戦の緊張感、そして1983年IWGPリーグ戦では"誰が一番強いのか"問題に決着がつくのかと、胸を躍らせた。事業失敗でのクーデターがあり、ヒーローに対する不信感も芽生えたが、1986年に巌流島で実現したマサ斎藤との一騎打ちには、想像の域を遥かに超えた戦いを見せられた。

 1988年の引退を賭けた藤波辰爾との一戦は60分の大熱戦の末にドロー決着。しかし、現地で目にした筆者は涙し、「やっぱり猪木はすげぇ」と心を揺さぶられた。気づいた頃にはアントンリブも、お世辞にも「美味しい」とは言えないアントンマテ茶も口にする、"猪木信者"となっていた。

 大人になるにつれ、猪木はリング上だけの存在ではなくなっていった。
 
 ブラジルに移住していた猪木は、自然破壊によるジャングルの減少という問題を「無くなりそうなら作ればいいじゃねぇか」と一蹴するなど常に逆転の発想を持ち続けていた。当時は大失敗の終わった「アントンハイセル」という食糧問題と環境問題を一気に解決する事業を介して、世界の抱える問題を一般に興味を持たせるキッカケを与えたのも猪木だった。

 しかし、1989年のスポーツ平和党からの出馬には戸惑った。政治家の猪木寛至はアントニオ猪木ではない。

 プロレスラーの存在に憧れを抱いていた者にとって複雑な思いが胸に去来していたが、1990年イラク戦争での日本人開放に成功する前代未聞の偉業を成し遂げる。それは異種格闘技戦でパキスタンの英雄アクラム・ペールワンに勝ったレスラーとしての偉大さが、政治の世界でも通用する財産となったことと知ると、より一層、心惹かれていった。

 そして、猪木は1995年には師である力道山の出身地・北朝鮮で平和のための平壌国際体育・文化祝典を実施。アメリカ人のリック・フレアーとメインで戦い、立会人はモハメド・アリという国交の無い国でも異例のイベントを大成功に導いた。
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