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格闘技・プロレス

ボブ・サップらとの“リスクある闘い”から逃げなかった武蔵。評価がされにくかった時代に魅せた「最強日本人」の凄み【K-1名戦士列伝】

橋本宗洋

2023.03.27

名だたる海外の名手たちとリングで対峙した武蔵。彼の全盛期は評価こそされにくかったが、間違いなく世界トップクラスのファイターとしての実力を有していた。写真:産経新聞社

名だたる海外の名手たちとリングで対峙した武蔵。彼の全盛期は評価こそされにくかったが、間違いなく世界トップクラスのファイターとしての実力を有していた。写真:産経新聞社

 K-1の歴史において最強の日本人ファイターは誰か――。この問いはファンにそれぞれの持論があるだろう。ただ、筆者はヘビー級に関しては武蔵を推したい。

 開拓者はもちろん佐竹雅昭だ。しかし、ヘビー級が全盛期だった時代のK-1において、武蔵は誰よりも優れた結果を残している。

 武蔵のデビューはK-1旗揚げから2年半後の1995年9月に訪れた。当時は体重83kgと線の細さが目立ったが、「喧嘩屋」の異名を誇ったパトリック・スミス(アメリカ)を相手にKO勝利を収めた。当時のリングネームは「ムサシ」。左右どちらの構えでも闘える“二刀流”からついたという。

 若き日の武蔵は、世界の強豪と次々に対戦しては悔しい敗戦を何度も経験した。だが彼は、その悔しさを無駄にはしなかった。体格差とパワーの違いをいかに克服するかを熟考。徹底的に戦略を練り、“武蔵流”のファイトスタイルを作り上げていった。

 そんな試行錯誤の末にひねり出したスタイルがスピードとテクニックを最大限に活かす闘い方だった。ド迫力のKOが最大の魅力と言われるK-1のなかで、潮流に逆行するスタイルで勝負したのだ。
 
 現役時代の武蔵にインタビューした際に、当時のファイトスタイルをこう語っていた。

「相手が標準再生なら、こっちは3倍速の早送りで動いてやろうと」

 VHSビデオにたとえた表現がまた懐かしい。2006年4月に身長2メートルを超えるセーム・シュルト(オランダ)と闘うと、顔面にパンチを打つだけでフォームが崩れるのだとも言っていた。まともに試合をするだけでも至難の業、そこで結果を出すのがどれだけ大変なことか。

 日本人トーナメント「K-1 JAPAN GP」では4度の優勝を誇る武蔵が、国内において頭抜けたファイターだったのは間違いない。ゆえにワールドGPでも、得意の蹴りに加えてパンチを磨きぬいたことで結果がついていった。2003年と2004年には2年連続でワールドGP準優勝。先輩の佐竹も94年に決勝進出を果たしているが、2年連続は彼だけの快挙だ。
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