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【名馬列伝】「幻の三冠馬」とも呼ばれたアグネスタキオン。太く短い“超光速粒子”で駆け抜けた競走馬の一生

THE DIGEST編集部

2023.06.16

無敗で皐月賞を制したアグネスタキオン。他を圧倒するスピードで「幻の三冠馬」とも言われた。写真:産経新聞社

「関西の至宝」とまで呼ばれた名騎手の河内洋が、弟弟子にあたる武豊が乗るエアシャカールとの壮絶な叩き合いをハナ差で制して、17回目の挑戦となった日本ダービーをアグネスフライトとのコンビで初制覇したのは2000年のことだった。

 その年の暮れ、河内はアグネスフライトと同じ調教師、長浜博之(栗東)から1頭の2歳牡馬の騎乗依頼を受け、12月2日の新馬戦(阪神・芝2000m)でデビュー。中団の後ろからレースを進め、3コーナーから位置を押し上げると、上がり3ハロン33秒8という爆発的な末脚を繰り出して2着に3馬身半、時計にして0秒6もの差を付けていた。

 12月の半ばごろのこと、筆者は編集担当者としてあるライターと取材で栗東トレーニングセンターを訪れた。目当ての取材は順調に1時間半ほどで終わったが、ライターと話しているうちに、せっかく栗東まで来たのだから、もう1件ぐらい取材をしてから帰ろうということになった。候補に挙げた取材先も見事に一致。12月2日に阪神競馬場の新馬戦を圧勝した長浜厩舎を訪ねることにした。

 長浜調教師は話しかけるときに緊張を強いられるタイプのトレーナーである。厩舎を訪ね、「どうか機嫌よく取材を受けてくれますように」と祈るような気持ちで筆者がノックして扉を開けると、目当ての調教師は真正面のデスクに鎮座していた。そこで、新馬戦を勝ち上がった評判馬のことを訊かせてほしいと願い出たのだが、厳しい言葉を浴びせられることになる。

 同調教師曰く、「まだ1勝しただけの馬や。1勝した馬を取材したいんやったら、トレセンをひと回りしてみたらええ。いくらでもおるやろ。今日は話すことはないで」と一喝されてしまった。けんもほろろ、とはこのこと。早い時期からマスコミに騒がれることを嫌ったのか、まさに取り付く島もないありさまで門前払いの憂き目に遭った。

 もう説明はいらないだろう。そのとき我々が取材したかった馬こそ、ダービー馬アグネスフライトの全弟、アグネスタキオンだった。
 
 アグネスタキオンはその1週後の12月23日、ラジオたんぱ杯3歳ステークス(GⅢ、阪神・芝2000m)に出走。新馬戦と同じようなレースぶりで直線に向かうと一気に突き抜け、2着に2馬身半差をつけて、当時のJRA2歳レコードタイムで圧勝した。その2着馬は、のちの日本ダービーやジャパンカップを制するジャングルポケット、3着馬にはNHKマイルカップやジャパンカップダートを制するクロフネというハイレベルな争いだった。

 アグネスタキオン、アグネスフライトの兄弟を産み出した母系の血統は、英国から輸入されたイコマエイカンへとさかのぼる名牝系である。持込馬のイコマエイカン(父Sallymount)は競走馬としては凡庸で1勝を挙げるにとどまったが、繁殖生活に入ってから1979年のオークスを制するアグネスレディーを出産。自身は我が娘の晴れ舞台を見ることなく心臓麻痺で急死した。

 しかし、イコマエイカンの血を受け継いだアグネスレディー(父リマンド)は、オークスのほかに重賞2勝を挙げ、JRA賞の最優秀3歳牝馬に選出される活躍を見せた。そして馬主の渡辺孝男の預託馬として繁殖生活に入ると、桜花賞馬アグネスフローラを送り出してその血をつなぎ、さらにアグネスフローラは日本ダービー馬のアグネスフライト、そして翌年にはアグネスタキオンと、ともに父にサンデーサイレンスを持つ兄弟を送り出すという素晴らしい成績を残すことになる。

 アグネスレディーは長浜彦三郎が管理し、アグネスフローラ以降はその息子である博之が手掛けていった。また、長浜彦三郎の時代から信頼を得ていた騎手の河内は、オークスを勝って自身初の旧八大競走(※)制覇となったアグネスレディー以降、すべてでこの母仔三代にわたる「アグネス」の手綱をとっている。

※グレード制が導入される1984年以前、重賞のなかでも特に格が高いものとして、クラシック競走(皐月賞、日本ダービー、菊花賞、桜花賞、オークス)と、春秋の天皇賞、有馬記念の8つのレースを「八大競走」とした。グレード制導入以降はGⅠ競走という最上級レースの指定が成されたため、前に「旧」の文字を付記し「旧八大競走」としている。
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