競馬

【名馬列伝】ライアン、マックイーンの同牧場同期に劣らぬ個性派メジロパーマー。障害入り試みるも、訪れた“相思相愛”ジョッキーと運命の出会い<前編>

三好達彦

2024.07.15

個性的な逃げでファンの心を掴んだメジロパーマー。写真:産経新聞社

 某誌編集部で仕事をしていたころ、筆者のニックネームを呼び、「パーマーさん、平地に戻るみたいだよ。何だかなぁ」と笑いながら話しかけてきた先輩編集者の嬉しそうな様子を覚えている。彼は個性的な逃げ馬を見逃さない特殊なセンサーの持ち主で、早くからツインターボやダイタクヘリオスを激推ししていた一種の「逃げ馬マニア」である。なかでも名門メジロ牧場の出身で、平地の重賞勝ちという実績を持ちながら障害入りした超個性派のメジロパーマーは、かなりのお気に入りだった。そして"パーマーさん"の走りっぷりを見て、当然筆者もすぐさま虜になった。

 メジロパーマーは、父がメジロイーグル、母がメジロファンタジー(父ゲイメセン)という名前からも分かるように、メジロ牧場のホームブレッド=自家生産馬だった。

 父のメジロイーグルは、仏ダービーやパリ大賞など仏G1を勝って1960年の欧州年度代表馬に輝き、種牡馬入り後は1966年の英愛リーディングサイアーとなったシャーロッツヴィル(Charlottesville)の産駒で、目黒記念(秋)を勝ったメジロサンマン(本桐牧場生産の持込馬)の仔。興味深いのはメジロイーグルの勝ち鞍はすべて逃げ切りだったことだ。

 一方、母のメジロファンタジーは米国産で主にフランスで教祖生活を送った牝馬ノーラック(No Luck)とその産駒(日本で種牡馬となって成功したモガミも含まれる)をシンボリ牧場の和田共弘とメジロ牧場の北野豊吉が共同所有し、日本に輸入したことに端を発する牝馬へとさかのぼる。ノーラックの四代母には世界的に名牝のラトロワンヌ(La Troienn)がおり、活躍馬を多数送り出す一大名牝系を形成している。

 メジロパーマーが生まれたのは1987年のこと。当時のメジロ牧場の産駒には年ごとに決められたテーマに沿って名前が付けられる習慣があった。1987年産の馬には「米国のヒーロー」「米国の有名アスリート」というテーマが採用され、メジロパーマーはグランドスラムを達成した米人気プロゴルファー、アーノルド・パーマーから付けられた。そして同期には、米メジャーリーグの奪三振王ノーラン・ライアンから付けられたメジロライアン、また『大脱走』などで知られる米屈指の人気俳優スティーブ・マックイーンから付けられたメジロマックイーンがいた。
 
 メジロパーマーは晩成の典型だった。1989年8月の函館でデビューし、3戦目で初勝利を挙げ、続くオープンのコスモス賞を辛勝するが、10月と11月のオープン特別を連敗し、そのあと左後肢の骨折が判明して半年以上の長期休養に入った。

 復帰は春のクラシックが終わった6月。札幌の1500万下(現3勝クラス)、エルムステークスを大敗すると、その後も中団からズルズルと後退したり、逃げても早々とバテてしまうといった精彩を欠く走りを続け、連敗は1991年6月のニセコ特別(500万下)に至るまで「11」を数えた。

 それでも、上昇のきっかけがなかったわけではない。91年の春からはレースでの「逃げ」を徹底してから1500万下特別を3着、オープン特別を4着と健闘。まだ1500万下の身ながらオープンや重賞にたびたび格上挑戦して強い相手に揉まれた効果もあってか、徐々に粘りが増してきたのだ。

 そして、同年の北海道シリーズでその効果が明らかになる。自己条件のニセコ特別を逃げ粘って2着とした後、同条件の十勝岳特別の逃げ切りで、実に1年9か月ぶりの勝利を挙げた。そして、その余勢を駆って臨んだ札幌記念(GⅢ)でハンデ51キロという斤量の軽さも好感して4番人気に推されると、スタートで出遅れながら第2コーナーで先頭を奪い単騎逃げの形に持ち込んだ。そして、直線で激しく追い込むモガミチャンピオン、カミノクレッセというGⅠレースの常連を抑えてゴール。5歳の夏にして初の重賞制覇を成し遂げたのである。
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平地で勝てず、一時は本気で考えた”障害転向プラン”